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弁護士 堤 淳一

2019年11月27日

太平洋の覇権(30)-----追いつめられる幕府

(丸の内中央法律事務所事務所報No.35,2019.8.1)

   
桜田門外の変

 □ 幕府は既述した朝廷との4次にわたる会談において鎖国への回帰を約束すると同時に、水戸藩に下された勅諚を撤回する旨の沙汰書きを取得していた(安政5年)が、大獄問題が一段落し、1859(安政6)年12月15日、井伊大老は登城してきた水戸藩主徳川慶篤に対し、勅諚を幕府宛てに提出するよう命じた。 
 勅諚返納をめぐって水戸藩内は紛糾した。重臣は若年寄(後に老中)安藤信正に返納猶予を願い出たが拒絶され、1860(安政7)年1月15日、当日老中に昇進した安藤は1月25日までに返納するよう、登城してきた慶篤に強く迫った(もっともこの勅諚は1862(文久2)年12月15日勅使大原重徳との会談により返還を要しないとされたが、これは後日譚)。1月末に斉昭は、勅諚やむなしとして強硬派(激派)に返納を命じたが、聞き入れるところとならなかったために斉昭は「君命を不用者有之候ては不相成」として激派に自重を迫った。
 前年の1859(安政6)年に斉昭に対し国許永蟄居が下って以来、在府水戸藩士と薩摩藩過激派とは気脈を通じ、朝廷を通じた幕政改革を推進しようと図っていることは藩当局に判明しており、斉昭は激発のおそれを感じていたのである。

 □ 斉昭の予感は的中し、1860(安政7)年2月20日、水戸藩激派は脱藩し、浪士となって出府、在府薩摩藩士との間に大老井伊直弼を暗殺することを共謀した。 同年3月3日午前9時頃、水戸藩浪士17名ほか薩摩藩士1名(有村次左右衞門)は明け方からの降雪を冒して登城する行列を江戸城桜田門外に待ち伏せ、まず森五六郎が駕籠訴を装って供先を襲い、黒沢忠三郎が合図のピストルを大老の乗る駕籠に向けて発砲し、駕籠先の乱れるのに乗じ、一斉に抜刀して駕籠へ襲いかかり大老の首級を挙げた。乱闘の内、稲田重蔵は闘死し、有村次左衞門は重傷を負い、三上藩辻番所前にて自刃、広岡子之次郎(ねのじろう)・山口辰之介・鯉淵要人(かなめ)の3名は重傷を負い、広岡は辰之口で、山口と鯉淵は八重洲河岸で自刃し、斎藤監物(けんもつ)は、老中脇坂邸に自訴して斬奸趣意書を提出し、同邸で死亡した。同じく佐野竹之介も脇坂邸に自訴、同邸で没した。残りの者たちは、熊本藩邸に自訴するか、密かに上京を試みた。 

 □ 事前の打ち合わせにおいては浪士は上京し、薩摩藩同志と合流し京都において挙兵することが図られており、盟約に従い金子孫次郎(現場指揮者)は、有村雄助と共に上京したが、途中で逮捕され、高橋多一郎とその子庄左衛門は大坂に入るが薩摩藩の同志の決起はなく、自刃した。

彦根藩側は藩主直弼以外に8名が死亡、外に5名が重軽傷を負った。

桜田門外の変と坂下門外の変.jpg

事変の影響

 □ 桜田門外の変の影響は甚大であった。
 事変により、幕府は強力なリーダーを失い、幕府独裁体制への復帰は頓挫しただけでなく、幕府の統制力が緩んでいることが明らかとなった。幕府の権威が低下したことにより、相対的に有力大名の存在感と天皇・朝廷の権力が著しく拡大し、幕府はこれら勢力との提携なしには政権運営に自信が持てなくなった。以後幕府は坂道を転げるように力を失ってゆく。

 □ 桜田門外の変を機に、藩の枠を超えた横の連携による国事運動が政治の舞台に躍り出て「処士横議」の時代となり、目標は国家変革へと絞られてくる。幕府の治安能力の弛緩は社会秩序の混乱の時代を招き、テロの横行を招くようになった。

公武合体

 □ 井伊の後任は久世広周(下総関宿藩主)と安藤信正(陸奥平藩主)が老中となって受け継ぎ、にわかに脚光を浴びるようになってきた公武合体論を軸に天皇・朝廷と幕府の積極的な提携を模索し始めた。
 鎌倉幕府から始まる武家政権はその権威を天皇から委されて成立するものであるという思想は、時代によって濃淡異なるものの、脈々として受け継がれてきた。ペリー艦隊の来航以来国事の動揺から幕府の内外に開国を巡る議論が紛糾するに及び、幕府は朝廷に意見を求めたところ、開国を是認しない天皇との間に意見の亀裂を生じ、国際情勢に鑑みてのことであるにせよ、勅許を得ることなく開国に踏み切った幕府は事あるごとに「違勅」の非難を浴びることになった。「違勅」はあらゆる幕府批判のキー・フレーズとして用いられ、朝幕間は分裂して行き詰まりをみせた。そこで天皇と将軍とが一体となることによって権威の再生に努めようとし、皇女和宮を将軍(第14代)家茂(当時15歳)の御台所(正室)に迎えるという婚姻政策が企てられるに至る。

 □ 皇女和宮内親王は孝明天皇の妹(家茂と同年)であり、すでに有栖川宮熾仁親王との間に婚約が成っており、当初和宮本人が降嫁を拒否したことから、天皇もこれに否定的であったが、岩倉具視(当時は侍従)の説得や、予てから天皇が要望していた「破約攘夷」(外国との条約を破棄して攘夷を決行し、10年以内に鎖国体制に復すること)を1860(万延元)年7月に幕府が誓約したこともあって天皇は同年に和宮の降嫁を勅許した。1862(文久2)年2月将軍家茂と和宮の婚儀が行われた。

破約攘夷

 □ 天皇から和宮降嫁の勅許を引き出すために幕府は「破約攘夷」を誓約したが、これによって天皇・朝廷の政治介入を拡大させたほか、「奉勅攘夷」の遵守を求められるなど、今後幕府の行動を大きく制約することになるのである。
 他方において尊攘激派の中には、幕府が和宮を人質にとったものとして一層の幕府批判を強める者もあり(例えば久坂玄瑞ら長州江戸藩邸激派)、久世・安藤の、尊王攘夷派を味方に付けるという目算は外れ、安藤自身、1862(文久2)年1月、婚儀のほぼ1ヵ月前に、水戸藩と長州藩の尊攘激派に登城中を坂下門で襲撃された(坂下門外の変)。安藤自身は軽傷を負ったのみで、襲撃者は全員が討ちとられたが、桜田門外の変に引き続く不祥事は幕府の威信を著しく低下させた。結局、安藤は和宮降嫁に対する批判などの責任を負わされる形で4月に老中を罷免されてしまう。

 □ 和宮の降嫁の見返りに幕府が約束した「破約攘夷」は、幕府がペリー来航前の嘉永初年頃の対外政策に戻すという強硬路線をとることを誓約したものであった。
 天皇は、久世・安藤政権を信頼していなかったのであろうか、9月に入ると、幕府が朝廷に提出した破約攘夷の回答を、諸大名にも通達することを要求するなど、幕府をして引っ込みのつかない立場に追い込んでいった。

ロシア軍艦の対馬上陸

 □ 公武合体論に基づく朝幕提携が模索されていたこの時期に、薩摩藩や長州藩などの雄藩も京都での政治活動を本格化させ、政治的発言力を強めていく。 最初に中央政局に登場したのは長州藩であった。
 1861(文久元)年2月、ロシア海軍のリハチョフ少将は、部下のビリレフ(ロシア艦ポサドニク艦長)に命じて対馬の測量と情報の収集を命じ、同年4月ビリレフは同島の芋崎に上陸して測量を開始し、対馬の軍事的価値を認識した。
 露艦の対馬占拠事件は幕府にとって国威と幕権を危殆に陥れるものであるとして幕府はこれを重要視し、外国奉行小栗忠順(ただまさ)を6月に派遣して退去を要求したが相手にされず、交渉は膠着し、小栗は同地を引き揚げた。しかし8月に入り、英国東洋艦隊司令官ホープ提督の干渉を受けてオプチニク艦(ポサトニク艦から任務を引継)は対馬を退去した。

 □ 1858(安政5)年以来、米、蘭、露、英、仏の5カ国との間に相次いで修好通商条約が調印されたことは前に述べた。1859(安政6)年6月に港が開かれて以来、物価は高騰し、加えて既述の通り1860(安政7)年3月に井伊大老が暗殺される事件が発生し、また1861(文久元)年5月28日の水戸藩士による英国公使館乱入事件が発生するなど、まさに世情は騒然とした。こうした中に発生した露艦の対馬占拠事件は国内に大きな影響を及ぼした。以前から憂慮されてきた日本領土に対する直接侵略が現実に行われ、主権が危機に曝されたのである。
 領土問題への対応は対馬藩の如き個別の藩レベルでは全く不可能だ、という事実(対馬藩は移封を申し出ている)が突きつけられたにもかかわらず、幕府は政治的・軍事的に何ら有効な主導的行動をとりえなかった。

長州藩の過激化

 □ 対馬は長州藩の眼と鼻の先にあり、ここに生じた露艦占拠事件は長州藩尊攘派を痛く刺激した。
 さらに長州藩尊攘派を刺激するもう1つの事件が藩内に生じた。
 長州藩直目付の長井雅楽(うた)は1861(文久元)年3月、単なる攘夷決行は困難であるとして、まずは対外貿易などで国力を養い、十分な軍事力を備えた上で攘夷を決行する策略(「航海遠略策」)を毛利敬親(たかちか)に提出したところ、藩論として採用された。長井は敬親とともに江戸に出て「航海遠略策」を以って老中久世・安藤らの幕閣を説得し、その支持を得ることに成功した。

 □ しかし、孝明天皇はじめ、朝廷における攘夷論は根強く、その説得に当たっている間に坂下門外の変で安藤が失脚するなど、航海遠略策を支持していた公武合体派は次第に影響力を失っていった。また、長州藩内においても尊王攘夷派の久坂玄瑞らが主導権を掌握したため、藩論は「破約攘夷」に転換し、長井は失脚するに至った。その後、久坂らは三条実美などの尊王攘夷派の公家と提携して京都における影響力を強め、長州藩は尊皇攘夷の下で京都の政局における中心的な存在となっていく。

島津久光の率兵上京

 □ 長州藩が京都において跳梁を始めるのに続いて薩摩藩も中央政界に乗り出す。薩摩藩の場合、元藩主斉彬が予ねて有志大名として活動して以来、政界へ関与してきた点で長州の場合と異なっている。
 藩主島津忠義の実父島津久光は、藩内急進グループである誠忠組の圧力と全国の政治状況が幕府のコントロールが及ばなくなった段階に立ち至ったことを踏まえ、自ら国事周旋に乗り出す決意を固めた。 それは、長州藩の航海遠路策と全く質を異にし、朝廷の権威をもって幕府に臨み、外から強制的に幕政改革を強制するという、島原の乱(1607~)以降未曾有の軍事力をともなう行動であった。久光のこのような非常な決意に薩摩藩上層部が容易に従う訳はなかった。しかし久光は反対派を却け、誠忠組を引き入れることによって自己の計画の実行母体を固めた。
 1862(文久2)年3月3日、久光は藩兵1000名を率いて上京の途についた。もともと久光の行動は出府の大義名分を欠いていたが、上京後浪士の取締を朝廷から命ぜられ、漸く京都へ駐屯する正統性を得ることができた。久光の上京に力を得て京都に蝟集した長州をはじめとする浪士は案に相違して鎮撫の対象となり、同時に薩摩藩誠忠組数名も久光の弾圧を受けることになった(いわゆる寺田屋騒動であり、結果として薩摩藩士の同士討ちをもたらした)。

 □ 久光が上京にあたって携えていた建言は次のようなものであった。
 ①安政の大獄により処罰された朝彦(ともよし)親王、近衛忠(ただ)煕(ひろ)、鷹司政通らの謹慎解除、江戸においては一橋、尾張、越前公らの激派の復権、②近衛忠煕の関白登用、松平慶永の大老就任、③田安中納言の後見職罷免、④老中安藤の罷免、⑤松平慶永を上洛させ政務に就かせるほか、一橋慶喜に将軍後見職を仰せつけること、⑥朝廷の考えを浪人らへ洩らさぬこと、浪人らの言説信用すべからざること、等を京都に建言した。

「三事策」

 □ ところが当時朝廷方の中心にいた岩倉具視はこれに介入し、久光案に朝廷案と長州案を付加し、「三事策」とし、これを天皇に示し、天皇は関東に勅使を派遣しその一を選ばせたい、ついては、というわけで群臣に諮ったが、公家からは何の反応もなかった。
第一 (長州策)
・将軍において諸大名を率いて上洛あるべきこと
第二(朝廷策)
・沿海五大藩(薩摩・長州・加賀・土佐・仙台)の藩主を以って五大老として国政に参加せしむること
第三(薩摩策)
・一橋慶喜を後見に、松平慶永(春嶽)を大老とすること。

 □ 幕府は、久光の動きを知って、先手を打つ形で慶喜の謹慎を解除した(1862(文久2)年4月25日)ほか、いくつかの対策を講じた。即ち、諸卿に対する謹慎解除を行い、譜代大名の松平容保、松平慶永を政務参与として登用した。
 幕府は慶喜を政務に参与させることを好まず、会津の武力と越前の声望を背景にして久光の建言をかわそうとしたのである。
 また幕府は長州策にある、将軍の率兵上洛を勅使下向以前である6月1日に発表した。

 □ ところで、上述の通り、長州藩論は海国遠路策を却け、攘夷説、尊皇説へと変わり身を見せていたため、長州寄りの立場から公武合体を策していた久世老中は辞職した(6月2日)。代わって板倉勝静(かつきよ)が老中に就任し、閣内不安定のうちに勅使を江戸に迎えることになった。

 □ 勅使の用意した上記の三事策は一応朝議として決したけれども久光は第一策、第二策を拒み、第三作(薩摩策)を以って実効策としたため長州との対立を招いた。

久光の出府

 □ 1862(文久2)年5月20日、勅使には大原重徳(しげとみ)(62歳)が任ぜられ、同月22日、久光と藩士が勅使を護衛して京都を出発、6月10日江戸に到着した。勅使大原重徳は江戸城に登り、白書院において将軍と対顔し、その後席を入れ替え勅使は上段に上り、将軍と対座して口上によって勅諚を伝宣した。
 翌11日、将軍は、三家、三卿、政務参与、老中を召し出して評議を開いた。政務参与は松平慶永、老中は、水野忠寛、松平乗全(のりたけ)、脇坂安宅(やすなり)、板倉勝静である。慶喜は後見への就任を辞退する旨を述べ、老中からは慶喜を後見にする必要はなく、慶永は政務参与のままでよいなどとする意見が述べられ、評議は容易にまとまらず、6月26日、久光は非常の手段をとった。

 □ 即ち、勅使屋敷へ脇坂、板倉の二老中を招き、即答を促し、隣室に薩摩藩士である大久保利通等を伏せて、もし答弁が不徹底であった場合は、勅使は座を立って隣室に出て、それを合図に志士は室内に闖入して、違勅を理由として天誅を加えうべしと決定、これを察知した老中は、ついにやむなく命を報ずることを約して引き上げるにいたった。
慶喜の後見職就任

 □ 7月1日、将軍は登城してきた大原に対し、「今度出格の叡慮を以って仰遣わされたるにより、一橋刑部卿を後見に、越前々中将を政事総裁職に仰付けられ、政事向万端相談あるべければ、此旨奏聞あるべし。」と拝答し、慶喜の後見職と松平慶永の政事職総務職への就任(三事策第三)が決まったのである。このあたりに慶喜、慶永、久光三者(特に慶喜と久光の間)に野合をみることができる。

 □ その後7月23日に勅使と久光、慶喜、慶永との会談が行われ、勅使は11項目の改革を伝達し、慶喜・慶永は幕政改革を約した。その後8月19日に久光と慶喜が会見し、久光は幕府に25項目からなる改革案を提出した。

 □ 久光が1000名の藩兵を率いて大原を護衛して江戸に下向することはそれ自体許されることではなかった。即ち、武家諸法度によれば、幕府の許可なく大名が京都に立ち入ることは禁じられており、ましてや兵を率いて上洛し、独自に朝廷と交渉した上で、幕政改革を求めるなどということは、名分のたたない公然たる騒擾ないし内乱である。藩の外で無位無冠である久光が朝廷を動かし、幕政改革を求めているということが、幕府権力の著しい弱体化を反映している。

 □ 因みに、久光の帰路、8月21日相模国生麦において行列の行く手を騎乗のまま横切ったイギリス人3名を薩摩藩士が殺傷した事件は後に国際問題化し、幕府を苦境に追い込むのであるが、久光の一行は英人を殺傷後「斬りっ放し」で西上した。本来であれば程ヶ谷宿近辺に逗留して幕府の命を待つべきであるのに後始末を幕府に押しつけて出発したのは国憲に悖る行為であるとして、慶永は激怒した。これに対し、慶喜は京都において下手人を差し出させればよい、と久光に緩い態度をとった。このことからも両者の関係を窺い知ることができる。

徳川家系図.jpg

一橋慶喜の改革路線

 □ 一橋慶喜の将軍後見職と松平慶永の政事総裁職は上に見てきた通り、その成立過程から見て微妙であった。老中以下の官僚グループはもともと後見職の設置に反対であり、両職の設置は京都と薩長土の各藩との摩擦を少なくするためのたんなる妥協に過ぎないとみなしていたから、態度に些か面従腹背的なところがあり、内心では日本を「世界第一等の強国」たらしめんとしていた後見職慶喜の「改革」はスムーズに進まなかった。

 □ 何しろ後見職・総裁職の就任の経緯は幕府内の組織決定というようなものではなく、早い話、老中らが勅命を背にした大原と久光の脅しに屈したものである。慶喜自身、4月13日にようやく幕府から謹慎を解かれたばかりであり、辞退した揚げ句、7月6日に後見職を引き受けたとなれば幕閣にその地歩を固めていたとは言えなかった。そのうえ後見職・総裁職は大老でも閣老でもない。御用部屋(執務室)には総裁や閣老が座し、三奉行所(勘定、寺社、町)をはじめ諸役人が加わって評議を行い、その結果を総裁、後見へと意見を求め、一同が用意する形で評議がまとまり将軍に申し上げる、という段取りであり、いわば総裁・後見職は飾りであった。京都方は慶喜に一刀両断的な期待を寄せるが、幕閣は機密にわたる事項については口を噤む有様であり、慶喜は板挟みにあった。

 □ 生麦事件の起こった頃、幕閣は大評定を行い、席上慶喜は大刷新を必要とする意見を吐いたが、老中らは慶喜に協力的ではなかったのである。
 しかしそれにしても国際問題の逼迫と幕府の財政経済の甚だしき窮迫は、幕府をして早晩何らかの改革を必要としたのであり(文久改革)、これに対して慶喜、慶永はよき理解者となりえたとみることができる(幕府修正路線)。

 □ 幕府が行った改革の第一は、閏(うるう)8月に行った参勤制の改廃である。すなわち、諸大名を春夏秋冬の各季在府の4種に分け、3年目毎に1回の出府とした。妻子は帰国を許し、嫡子は参府、在府ともに自由とし、江戸屋敷の家臣はつとめて削減するものとされた。大名の往復には藩が所有する洋式艦船(軍艦)を用いることも許された。
 幕政の根本を成すこの制度を改めることは、甚だしく幕威の衰頽を意味した。
 この参勤とこれにからむ改革は、リストラを伴い、足軽、仲間(ちゆうげん)等、数万の失職者を生み、彼らは改革反対を叫んで、主張者慶永らに暴行を加え、騒擾を起こそうとしたため、9月1日、幕府は改革のために仕事を失った者の救助に取りかかり、失職者の帰国、在府、望むところに任せ、帰国するものには、仕事に就くまで本籍地の領主、地頭をして救助せしめ、留まる者は、同じく町奉行をして救助せしめることにした。

 □ 改革の第2は、国際対策としての軍備の充実であった。
 閏8月、全国海軍創設に関する評議が行われた。将軍家茂が出御して諮問を行い、軍艦頭取(福岡金吾)がこれに答えた。諮問は幕府が海軍の大権を維持し、軍艦300数艦を備え、管区を定めて軍隊を置くと仮定して、完備に要する年月如何とするもので、これに対し諸藩において海軍を創設し、これを幕府・諸藩の海軍と統合することが必要である旨の答申がなされたが、封建制度を維持しつつこれを推進することは容易ならざる難題であった。

 □ 陸軍についてはこの年12月、陸軍奉行の下に、初めて歩、騎、砲の三兵科からなる組織を作り、陸軍奉行をしてこれを統括せしめた。さらに幕府領における兵賦(兵役制度)を改正して、万石以下百俵までの旗本、御家人に兵賦を課し、17歳以上45歳以下の壮健の者を選抜し、これを歩兵組に編成し、差し支えあるものは金納を許すものとした。しかし、徳川領(天領)だけにしか武備の強制を行い得ぬところに、封建制度における軍備には限界があった。

 □ 幕府諸役人の教育については、従来、宋学以外を異学として禁じたものを、儒学一般に亘って儒者を登庸し、なかんずく洋学を奨励して、蕃書調所(ばんしよしらべしよ)の改革につとめ、やがては洋学を学問所の一部に編入し、官学たらしめるに至った。

 □ 次に一般職制の改革としては、いくつもの閑職を廃し、冗員を整理し、小姓、小納戸の数を減じたが、閏8月、特異の職制として会津の松平容保を京都守護職に任じた。京都が薩長の兵力によって押さえられて以来、所司代はあってなきがごとくに堕して治安が乱れていたものを、会津藩(24万石)の持つ武力を背景に治安を回復しようとしたのである。容保は藩内の反対を押し切って、閏8月1日、京都守護職の命を拝し、役料5万石を賜った。後に起こる戊辰戦争の悲劇はここに始まった。
 この時、京都守護職の役は、島津久光に朝命が下りかけていたのであり、幕閣は先手を打って容保の守護職を実現したのである。もし薩長の対立がなかったとしたら、久光がその職に就いていたかもしれない状況にあった。

 □ 朝廷に関しては、山陵の修復をはかり山陵奉行戸田忠至(ただのり)を新任したこと等があげられる。

 □ 次に浪人対策として、弾圧一本槍であった方針を改め撫恤(ぶじゆつ)の体勢に変じた。2年後には浪人250余人を糾合し、将軍上洛の際の用意も兼ねて、京都の浪人を懐柔し、反幕の気勢を減殺しようという、政策の転換を図った。後に武装警察組織となった新選(撰)組もこの流れの中にある。

 □ 政治犯の恩赦を図り、亡井伊大老を追罰して遺領10万石を削り、久世、安藤元老中に隠居急度(きつと)慎(つつしみ)を命ずる等、以下多方面に亘って処罰がなされ、結局将軍も、官位一等の辞退、田安慶頼も同様に一等を辞退した。反面水戸斉昭、島津斉彬への贈位がなされ、尾張慶勝、山内豊信に国事に参与することを許し、やがて大赦に及ぶこととなった。その後政治犯大赦が漸次なしくずしに行われた。

 □ 世間からは「慶喜なるもの」の出現に期待が寄せられ、庶民の人気を博した。こうして1862(文久2)年後半には慶喜には各方面からの期待の人として、朝幕上下から仰望されたことは疑いないように思える。 慶喜は上京しようとしていた。しかし、それを崩すものとして、長州的な変革派が、虎視眈々として慶喜等、修正派の行動を監視し、否定しようとしていたのである。

第二の勅使

 □ 一橋慶喜が、その修正的な立場から、薩摩の久光的立場と妥協できる範囲の幕制改革(藩主改良版)に尽瘁している間に、志士浪人的、変革的立場に変貌した長州藩は、薩摩に名を成さしむることがないような改革を実現すべく、土佐の激派と組んで、京都の政情を不安定なものにしていった。大原勅使と久光を擁護していた岩倉具視は失脚し、京へ戻った久光も、この形勢に怒って、志士の言によって朝旨を二三にすべからず、という建白書を残したままで、滞京15日、なすこともなく帰国の途についてしまった。

 □ かくて京都は長州藩と土佐の激派によって左右されるにいたり直接行動(テロを含む)が相次いで発生し、激派に同情する若手公卿によって、京都方の意見が形成されるようになっていった。

 □ そして1862(文久2)年11月27日、第2の勅使が派遣される。これは上述の第1の勅使の基になっている内政重視の考えを訂正し、幕府に「攘夷」を迫る、外政第一の趣意に基づものであったが、その内容は諜報を通じていちはやく幕府の耳に入った。後に明らかになる勅書の核心は意訳すれば次のようである。
・攘夷のことが一定しないのでは人心が和合することはできないので・・・攘夷の案を決して速やかに諸大名に布告すべきである。その策略は武将の職掌であるゆえ速やかに衆議を尽くし、妥当な世論を決定して醜夷拒絶の期限をも奏聞すべきである。
・今般攘夷の策を発表すれば、外国勢力の侵略もありうるところ・・・諸藩より身体強幹にして惣勇気節に富める者を選抜して御親兵となし、京都守護の任に当たらしめ、其の武器食料は石高に応じて諸藩に賦課すべきである。云々

 □ 勅使下向の報に接した慶永と慶喜の反応が興味深い。
 慶永によれば、実に攘夷の決行は未曾有の大難事である。どうしても聖旨が決まれば是非もないゆえ関東へ一任された政権を朝廷に返上し、徳川家は一諸侯となり、列侯とともに攘夷に励むのがよい、とする。
 これに対し慶喜は、「鎖攘」(攘夷鎖国)は困難であり、外国との戦になれば一敗地に塗(まみ)れることは確実であるゆえ、どこまでも説得によって開国を図るべきである。この度の朝廷の考えは薩長はじめ浪人らの考えによるものであり、天皇の意思ではないから、大政を奉還することはよろしくない、とする。

 □ 両人の考えはすでに開港している現状を変ずることはできるわけがないという点で共通しており、慶永は10月13日、慶喜は10月22日に辞表を提出した。
 京都町奉行永井尚志は、攘夷は断行すべきではないけれども、「此際兎角の論判を止めて、一旦立派に遵奉あらんことを希望するなり。而して後将軍ご上洛の上、親しく内外今日の形勢を明らかにし、攘夷の決して行わるべからざる道理を奏聞せられなば、庶幾(こいねがわ)くば天意を回すべきか。」とする意見を急使をもって幕府に報告した。また老中たちからは、和宮の降嫁の勅許を得たさに、苦し紛れに7~8年乃至10年のうちに外夷拒絶を公武合体の態勢で行うことを約束した旨の苦衷を聞かされるに及び、慶永も慶喜も辞意を固持することはできなくなり、なし崩しのように登城、執務を続けることになる。

 □ 勅使は10月12日に京を出発し、10月23日に江戸へ到着。そして11月27日、勅使三条実美、別紙姉小路公知が登城。大広間上段に勅使、将軍家茂中段において対面し、つつがなく前記勅書の授受を終えた。第1の勅使のときは、将軍も上段にあって対座したのであり、幕権の衰退をみるべきであろう。

 □ 時流の赴くところ「できるわけのない攘夷」に追い込まれるに至った幕府は崩壊へと向かっていく。

<参考文献>
・家近良樹「江戸幕府崩壊 孝明天皇と『一会桑』」(講談社学術文庫、2014)
・田中惣五郎「最後の将軍徳川慶喜」(中公文庫、1997)
・宮地正人「幕末維新変革史(上)」(岩波書店、2018)
・門松秀樹「明治維新と幕臣『ノンキャリア』の底力」(中公新書、2014)
・三谷博「ペリー来航」(吉川弘文館-日本歴史叢書、2003)

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