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弁護士 堤 淳一

2021年09月16日

太平洋の覇権(34)-----第二次長州戦争(2)、幕府軍の敗退

(丸の内中央法律事務所報No.39, 2021.8.1)

 戦争前夜

 □ 慶応元(1865)年10月18日、会津・桑名の両藩主と老中小笠原長行が参内し、広島で長州藩主父子を糺問することを上奏、許可を得た。これをうけ、11月6日、使節となった大目付永井尚志は大坂を出発、12月6日広島に到着し、同月14日長州使節と対面、①藩主が謹慎をしないことを咎めたうえ、②長州藩が山口城を再築修理したこと、③武器を輸入していること、④9月27日(元治元年)を過ぎても藩主登城なきはなぜか、等の諸点を糺問した。しかし長州側は幕府による再征こそ正当性を欠くと非難し、交渉を遷延させ、その一方で戦備を急いだ。

   長州藩の申し條は、

(中略)乍恐(おそれながら)、於幕府(ばくふにおいて)、待夷(たいい)の御処置振、叡慮御遵奉の筋にも参り兼(かね)候哉、・・・京師変動(禁門の変)の罪、已(すで)に帰着する所有之候上は、速に御冤罪明白、(中略)万一も此余御沙汰の筋に付、両君上へ御譴責の儀有之候時は、決て叡慮、台旨(将軍の意思)にては無之(これなく)・・・。

   として、口では天朝に忠節信義といいながらも、その実は理不尽な命令を突き付ける幕府には決して従わない、という論理で貫かれていた。

 □ 幕軍が大坂の長期にわたる滞陣ですっかり戦意を落としていた頃、長州藩は山県半蔵(宍戸璣)が起草した「長防上民合議書」を木版刷で30万部程を出版し、広く藩内外(農・商人らを含む)に配布した。プロパガンダ戦を展開したのである。この文書は長州藩の正当なることを述べ、全兵士が懐に入れ討死の覚悟で戦に臨むよう、決意を促していた。

 □ しかして、武備を充実するため時間稼ぎをしたい長州藩は、ここは幕府と決定的に対立するのは望ましくなく、うわべだけ幕府の要求に応じ、12月9日、「然る上は何分の御沙汰、早々被成下候様(なしくだされそうろうよう)奏願上候」との自判書を提出した。これを受け、永井らは同月16日広島を出立、18日大坂城に登城、復命した。
 閣老の間では、長州藩の10万石を削封し、藩主を隠居させ、世子に相続させるとする処分案が合意される。これに対し、一会桑(一橋、会津、桑名)グループとの間に意見の対立があったものの、22日老中と一会桑が参内、朝議がおこなわれ、幕府申請の通り決着をみた。慶応2(1866)年2月4日、朝議決定申し渡しの使命を帯びて、老中小笠原長行が大坂を出立、7日広島に到着し、長州に出頭命令を下した。

 □ あくまで事態の引き延ばしを策する長州側は、幕府の言うことを聞く肚はない。驚くことに裏で薩摩藩との提携(いわゆる薩長同盟)の動きが進んでいたからである。薩長の提携は3月7日に成立した(このことについては後述する)。

 □ 長州藩は理由を構えて漸く4月に藩の名代を広島に出頭させたので、長行は5月1日、10万石削封、藩主父子蟄居と請書の期限を5月29日とする朝廷の決定を伝達することができたが、長州側は再三陳情書を提出して申し渡しの不当性に抗議し、かつ請書を一向に提出しない。
 これに対し長行は、命に従わなければ、6月5日を以て四境より長州へ進入すべしと告げた。
 このような動きの中で薩摩藩士大久保一蔵(大久保利通)は5月28日大坂城に老中板倉勝静(かつきよ)を訪ね、さきに自藩に下った出兵命令(日本海から海路萩口への進攻を命ぜられていた)を、薩長同盟の履行として拒絶している。

 □ 幕府としては、時間を延ばされれば延ばされるだけ、不利な状況に追い込まれる(戦費の増大、軍紀の緩み、諸藩や戦時インフレに苦しむ人々の厭戦世論の高まり)。
 他方あくまで表面上は幕府との交渉を継続し、時間をかせいで武備の充実を図るという長州藩の作戦は、同時に内部に隠忍自重と自己制禦を強く求める必要があった。しかしそのため血気盛んな青年たちの結集する諸隊では、戦意が高まれば高まるほど、統制が困難となっていき、内部抗争も生じた。

 □ しかしいやおうなしに幕府と長州藩の緊張は高まり、戦雲は濃くなってゆく。幕府は威信を賭けても開戦せざるを得ない立場に嵌まり込んでいくのである。

 開戦へ

 □ 5月28日、先鋒副総督として老中本荘宗秀(丹後宮津藩主)が広島に到着し、6月2日、老中小笠原長行は九州方面の監軍として宇品より小倉に向かい、同日、若年寄京極高富(丹後峰山1万1000石の藩主)は四国方面の戦争指導のため大坂を出帆し、5日には先鋒総督徳川茂承が広島に到着した。
 そして7日、一橋慶喜と京都所司代松平定敬(桑名藩主)の両名が参内し、問罪の師を発向することを許可するとの御沙汰書を授かる。
 かくして長州藩を包囲して兵を展開し、四境から押し寄せる体制が整った。

 □ しかし幕府軍と譜代諸藩の兵が芸州(安芸国)に結集する中、先鋒を命じられた広島藩は交誼の篤い長州藩と幕府との間の板挟みとなり、6月4日出兵を辞退、8日、先鋒総督はやむなくそれを認めた。早くも包囲網の一角が崩れてしまった。

 大島口の戦い

 □ 慶応2(1866)年6月7日、幕府軍艦富士山(ふじやま)丸・翔鶴丸・八雲丸が北から周防大島へ艦砲射撃を加えたことによって第二次長州戦争の幕が切って落とされた。もう一手は瀬戸内海を隔てた伊予松山藩の松平勝成の軍勢であり、翌6月8日、自領に集結させていた兵の第一陣を大島南岸に上陸させた。宇和島藩は派兵せず、松山藩兵は単独行動を余儀なくされた。

富士山丸(ふじやままる)

【差替用2】富士山丸(イラストデータ).jpg

幕府が米国から買受けたもので、慶応2(1866)年4月に米国から引渡された。本来2年前にはニューヨークから回航する筈が、下関戦争のあおりを食らってそれが遅れに遅れた。幕府船籍になってすぐの6月7日には実戦に駆り出された。後に明治政府に引渡され軍艦富士山となる。

艦   種 :木造スクリュー蒸気艦
長さ(水線長):63.09m
幅 (同) :10.36m
排 水 量 : 1000トン
速   力 :8ノット
備砲:12門(100ポンドパーロット自在砲×1を含む)

 □ 6月11日には、八雲丸がまず島の北部に猛烈な艦砲射撃を加え、その掩護のもとに幕府歩兵2箇大隊が上陸した。砲声は殷々として四国にも達した。幕府歩兵隊の軍紀は最悪で、戦域内で暴虐を恣ままにした。上陸後食糧を略奪し、鶏はおろか牛まで殺して食ってしまったのである。

   大島の惨状は長州藩を憤激させた。高杉晋作は100トン足らずの小軍艦丙寅(へいいん)丸で幕府艦隊に夜襲を掛けて退散させるなどの活躍を見せた。

 □ 6月15日、16日の両日、長州の第二奇兵隊・洪武隊6箇大隊が総攻撃を掛けた。松山勢は大敗を喫し、死傷者は多数に上り壊滅的な打撃を受け、安下庄から船で撤退した。
 幕府歩兵も同じようで、今までは面従腹背だったと見えた農民たちが突然、鉄砲を持ち出して抵抗を始めた。やむなくこれを鎮定している最中に長州勢が大挙して反攻してきた。幕府歩兵は艦砲射撃の掩護に助けられて、軍艦に収容され、命からがら大島から撤収することができた

 芸州口の戦い(1)

 □ 安芸国(広島藩)の西から周防国(長州領)へ侵入するプランである芸州口正面の幕府軍は、先鋒総督紀州藩主徳川茂承と副総督老中本荘宗秀が指揮する主力部隊だった。広島藩が先鋒を辞したため、この正面は幕府歩兵の外、彦根・高田・大垣・明石の諸藩が担任した。
一方、長州藩側は井上馨らが指揮する遊撃隊・御楯隊・膺懲隊・鴻城隊等の諸隊である。
 両軍は、6月13日、長州と芸州の藩境の小瀬川で激突した。芸州大野へせまった長州軍は、そこで洋式装備の幕府歩兵・紀州藩兵と激戦を展開、一進一退をくりかえすことになる。

 □ この間前線に一悶着があった。本庄副総督が長州藩の捕虜の釈放と引き換えに双方撤兵する案をもって独断で停戦工作を行ったのである。しかし長州側はこれを拒否した。これを憤った総督徳川茂承は将軍に辞表を提出した。本庄は両軍の鉄砲の性能とその普及度が余りに違いすぎて戦いにならない。このうえはフランスから30隻ほど軍艦を借りて速攻するほかなしと論じた(この時期幕府がフランスから600万ドルの借款を受ける話が進んでいた)。しかし家茂は本庄老中を罷免し(7月25日)、本庄に代え、老中水野忠成(沼津藩主)を副総督に任じた。

 将軍家茂の陣歿と政局

 □ 将軍家茂はさきに慶応元年5月16日江戸を進発し、同年閏(うるう)5月(注)、大坂城へ入城していたが、欧米四箇国による兵庫開港要求問題の処理などに足をとられて身動きがとれず、漸く翌慶応2年6月大島口正面において戦端を開いてみると各方面から届けられるのは連日の敗報であった。
 将軍はさきに慶応2年4月以来しきりに胸痛を訴えるようになっていたが、7月には脚気を発症し、7月芸州口における本荘副総督の独断的停戦工作は家茂を激怒させ、食事を嘔吐する容体となった。方面司令官の軍紀違反(仮に熟慮の末であったとしても)がもたらしたストレスは身体に著しいダメージを与えたに違いない。
 7月12日頃から不眠と痙攣に悩まされるようになった。その後将軍の病状は回復することはなく、7月20日の夕刻六ッ半時(午後7時頃)、家茂は大坂城内の一間で息を引き取った。死因は脚気衝心(ビタミンB1の不足から惹起される心不全)であるとされる。21歳の早逝であった。将軍薨去の報は即刻、京都の一橋慶喜に送られ、即刻下坂するように告げられた。

 □ 将軍逝去の前日に大坂城に登城した松平春嶽は、板倉伊賀守、稲葉美濃守の2老中に面会し、病篤く拝謁できない旨を聞かされていたが、大坂城に駆けつけた慶喜と密談した。話題はもちろん将軍位承継問題であった。板倉、稲葉は次期将軍は慶喜しかないと思っているものの、幕閣内部には異論も少なくない。殊に江戸城芙蓉間詰めの幕臣(幕府の実務を担当する外国奉行、勘定奉行らいまでいう次官、局長クラスの実力派官僚グループ。小身から能力をかわれて昇進してきたキャリア組である。)や大奥に慶喜嫌いが少なくなかった。慶喜は世上、一会桑と言われる、天皇と直結するグループを形成し、幕府と別の権力を形成していた。そのため幕閣からは不評を買っていた。

 □ 家茂の死は1箇月の間公表されず、喪は8月12日まで伏せられた。しかしかかる情報こそ、ひそやかな噂となって広がるものである。前線で戦っている将兵の間に将軍の訃報がじわじわと広がるにつれ、どの隊も重苦しい空気に包まれていった。

 □ 老中ら閣僚は表向き家茂はまだ存命であることにしておいて、懸命になって次の将軍を決めようとしていた。尾張義宜、紀伊藩の徳川茂承、田安亀之助(生前家茂が後嗣に、と意図していたと伝えられ、幕府崩壊後徳川宗家を継ぐ)らが候補とされたが、いずれも幼年もしくは若年でこの動乱の時代を仕切ることは不可能である。伊賀守も春嶽も、次期将軍は一橋慶喜にするしかないという考えで一致はしているが、周囲に配慮すればここは慎重にならざるを得ない。

 □ 慶喜はと言えば自分を歓迎しない空気に気づいていないわけはなく、将軍職はおろか徳川宗家を相続することに対しても拒否反応を示して見せる。説得役を買って出た松平春嶽は、何度も面談して慶喜の顔色を読み、本音は承諾のつもりであると見抜き、遂に慶喜の首を縦に振らせることに成功した。慶喜は徳川宗家を相続することを承諾し、7月28日閣老に「家茂の名をもって」慶喜の徳川宗家の相続を上奏、翌29日に勅許が下り、同30日、大坂城で老中稲葉美濃守から、

 公方様(家茂)御儀、この程中(ママ)より御不例あらせられ候ところ追々御疲労増させられ候につき、この上、万一御危篤にも至らせられ候はば、御相続の儀、一橋中納言殿へ仰せ出でられ候。かつ防長追討の儀は至急につき、御名代御出陣なされ候様これまた仰せ出でられ候。

   とする通達が出された。家茂はまだ生存していることになっており、長州戦争へは将軍の名代が出征することが誌されている。名代は徳川慶喜である。
 大島口において幕軍は6月16日には島から撤退し、石州口は7月18日の浜田藩主の敵前撤兵により幕軍は崩壊、芸州口においては本荘副総督の独断停戦工作などで、総督徳川茂承は激怒してその職を辞すべく辞表を提出していた(但し未受理)。また九州小倉正面では7月3日長州勢が小倉領に兵を上陸させていた。
春嶽から長州征討に関する意見を求められ慶喜は「何ぶん一当て大討ち込みをする心得なり」と大見得を切っている。頽勢挽回の大いくさをし、有利な条件で停戦し、それを手土産に将軍職に就こうとしていたとみえる。

 荒れる朝議

 □ 薩摩藩は反幕の立場を明らかにしつつ、5月28日に将軍からの出兵命令を拒絶したことは前述したが、再び大久保一蔵が運動して藩論を固め、7月27日に至って、「御征伐の筋合判然相立ち、別段名分至当のお達し相成らず候てはきっと御請仕りがたき旨」を申し立て、再び出兵拒否を通告して幕府に揺さぶりをかける。

 □ 朝廷にあっても孝明天皇は正親町三条実愛など反幕府派の長州解兵論(止戦論)を抑えるのに苦労し、慶喜の名代征討の勅許もスムーズに下りなかった。

  7月29日に開かれた朝議は大揉めであった。正親町三条は征長に理がないことと幕府の失態を激しく論難したが、天皇は「征長の事解兵は相ならず」と廉内(みすうち)より発言した。たまりかねての発言であり、過去に例をみない異例のことであった。
 正親町三条は更に発言を求めたが、山階宮から政務諸事は幕府委任のゆえ、薩摩の建言は差し戻し、長州征討の件は将軍の喪を発し、喪中に解兵を申し渡し、諸侯をして協議したらどうかとの発言があり、これを受けて、出席者の賛同を得た。天皇も「今日の議事は天下の一大事なれば、朕においてもなほ勘考すべし。諸臣に於いても深く考ふべし」と言い残して退去された。

 □ しかし結局孝明天皇は諸卿の反対を押し切って長州征討の勅許を下した。
 慶喜は意気軒昂たるものであった。8月8日、出陣の御暇乞いに参内して小御所で天皇から節刀(出征する将軍に賊軍征討の命を授ける印としての刀)を賜った。
 慶喜自身が芸州口を攻め、紀州総督には石州口を進ませる計画を立てた。幕府軍の編制も変え、すべての隊に小銃を配する手筈を調えようと企てた。さきに副総督徳川茂承は本荘伯耆守の独断行動に立腹して辞表を提出していたが、幕閣から慰留されているうちに慶喜が将軍の名代で出征が決まったので、

  辞意を翻し、全軍の士気を鼓舞して芸州口で攻勢をとる決心をした。軍勢の士気も揚がった。

 芸州口の戦い(2)

 □ 慶応2(1866)年7月28日、征長軍の主力が廿日市から大野村に終結した。その軍勢は幕府歩兵4大隊・紀州歩兵2大隊、紀州藩人数2大隊、井伊(3大隊)・榊原(兵数不明)両家の人数である。官糧護衛(輜重輸卒の護衛部隊であろうか)として戸田采女正(うねめのかみ)(大垣藩10万石)の人数も加わっている。どの隊も劣勢挽回を期して本腰を入れていた。

 □ 攻撃目標は6月に攻防戦が繰り広げられた大野村である。攻防戦は、7月28日、8月2日、8月7日の3次にわたって展開された。
  第1次攻防(7月28日)の幕軍参加部隊は、海岸に紀州藩、幕府歩兵、山間部は彦根藩兵、明石方面に別働隊(不明)である。
これに対する長州藩は大野に御楯隊、幕軍が進出する三方面に遊撃隊、衝撃隊、醜恩隊、??敷隊が対峙した。
 昼頃になると幕府軍艦旭日丸と紀州軍艦明光丸が玖波方面から接近してきて砲撃し、長州兵は苦戦だったが日没まで持ちこたえ、幕府軍は大野の手前から宮内へ引き揚げた。

 □ 8月2日に行われた第2次攻防は玖波(くば)をめぐって戦われた。
  8月2日、幕府歩兵隊の一隊が海岸通りを、別の幕府歩兵隊及び水野大炊頭隊が山間の道を玖波に進撃し、長州軍もこれに応じた作戦を進め、ついに8月7日、大野付近で最後の攻防戦が展開された。
 しかし攻撃は同時に大野と廿日市を結ぶ本街道を扼する地点にある宮内村にも加えられていた。長州兵は周囲の山々に臼砲(曲射砲)を何門も運び上げ、幕府軍の陣地を榴弾で潰しながらじわじわと包囲しており、この村が占領されては幕府軍は策源地の広島と、前線との間の陸路を切断され、せっかく死守した大野村の幕府兵は遊軍化する。

 □ 浅野家(広島)は好機到来と事態収拾の動きを始める。領地を戦場とされた広島藩は村々と田畑を荒廃させられて面白かろう筈はない。窮境を脱するため、長州側の広沢真臣、小田村素太郎と会談、長州藩との間に「長芸提携」を密約した。即ち、①両藩は隣国の好誼を厚くすべきこと、②広島藩は朝廷に対し、長州の為に尽力すること、③長州が安芸国より撤退するに際しては、広島藩は幕府軍の追撃を阻止すること、の三箇条による合意が成立したのである。この提携を成立させた上で、長州勢は8月7日宮内を奪取し、征長軍を広島に撤退させた上、自らも小方・玖波以西に退き、8月8日には両軍の間を広島藩兵が遮断した。

 □ こうして戦線は膠着したが、そうした中、8月12日に慶喜が大坂城を進発する筈のところ、ぐずぐずし始め一向に出陣の下知がない。どうも様子がおかしいとの噂が立った。それは後に判ることなので石州口と小倉口の戦況に触れよう。

 石州口の戦い

 □ 日本海側の石州(石見国)浜田・津和野方面から西進して長州藩領へと進撃する作戦の正面を担任するのは、福山、浜田、津和野の三藩兵及び紀州藩兵であり、総勢7,500人となるはずであった。
このうち長州領に最も近接しているのは津和野藩で、真先駆けて長州領へ進攻すべきところ、同藩はもとから幕長の衝突を回避する立場をとっており、それゆえに長州勢をして津和野藩から迎撃されるおそれなく、城下を通過して浜田藩領へ進入することを許すことになった。
 長州側は、この方面に南園隊・精英隊(干城隊所属部隊)および支藩の清末(きよすえ)藩兵を配し、その数千余人であった。南園隊は村田蔵六(後の大村益次郎)が率いていたが、村田は、自隊から出て方面参謀として全部隊を指揮した。

 □ 長州軍は自領を幕軍の攻撃から防衛するのではなく、積極的に浜田藩領に40キロも進入し、更に石見銀山をも手に入れた。
 即ち6月16日、長州勢は浜田藩の要地益田を攻め、17日、同地の守備にあたっていた福山・浜田両藩兵を撃破した。さらに7月5日には益田・浜田間の三隅・大麻山・周布・長浜を次々に攻略して、浜田城に急迫した。窮地に陥った浜田藩は5日、停戦講和を申し入れ、17日より交渉が始まったが、18日午後2時頃、浜田藩は突然城に自ら火をかけ、藩主松平武聰(たけあきら)と浜田藩兵は松江藩領に撤退した。
 幕府の出先官僚である石州大森代官も逃亡し、浜田藩領と共に大森代官領(天領。石見銀山)は長州藩の占領するところとなった。
 藩を消失させられた旧浜田藩(6万1000石)藩士たちは飛地の美作鶴田(たづた)に移り、2万7800石の小藩となった。

 小倉口の戦い

 □ 小倉口からの侵攻に動員が予定されていたのは小倉・肥後・久留米・柳河・唐津の九州諸藩と幕府歩兵隊であり、監軍として老中小笠原長行が指揮をとることになっており、総勢は2万の大軍であった。小笠原長行の作戦計画では、これらの幕府軍を門司、田之浦に集結させて、関門海峡を渡海し、一気に長州藩領へ攻め込む手筈であった。関門海峡を隔てて対峙する長州側は奇兵隊と支藩長府藩兵を配し、参謀は高杉晋作と山県有朋である。

 □ 高杉は「田之浦、門司の敵を駆除せざれば、わが長府馬関の地は敵兵侵入の虞なしとせず。よりて軍艦をもって田之浦と門司を砲撃し、陸兵を持って同地に上陸し、之を攻撃一掃すべし」として田之浦と門司に対する奇襲攻撃を立案した。
 この計画を採用した長州軍は6月16日夜半、丙寅(へいいん)丸、癸亥(きがい)丸、丙辰(へいしん)丸が田之浦へ向け、乙丑(いっちゅう)丸、庚申(こうしん)丸が門司へ向けて砲撃を行い、この機に奇兵隊が門司と田之浦へ渡り、田之浦の幕府軍本陣へ乱入したうえ、幕府軍の軍船200艘余を焼き払った(小倉海戦)。

 □ このうち乙丑丸とは長州藩所有で薩摩藩名義とし亀山社中が運航に従事したユニオン号のことであり、土佐の坂本龍馬ら亀山社中が乗り組んでおり、艦砲射撃により幕軍の艦船を撃沈するなどして、幕府軍の関門海峡渡海作戦を不可能にした。さらに門司周辺の幕府側砲台を破壊して奇兵隊等、長州軍の門司・田之浦上陸を掩護した。

 □ 7月3日、長州勢は小倉領を再攻撃し、兵を上陸させた。
 更に同月27日、長州勢は小倉攻略のため兵を上陸させたが、この時は小倉・熊本両藩兵が力戦、幕府軍艦も長州勢を砲撃し、長州勢は下関に退いた。
 しかし、久留米藩・柳河藩の消極的戦い振りによって闘いの前面に立たされた熊本藩は、両藩の戦い振りに不満を抱き、引き続き戦闘を続けることを拒否することとなる。

 □ 熊本藩は、自藩一手では長州勢の強襲に長く耐えることは不可能と判断し、小笠原長行に九州諸藩一致体制の実現を強く求めたにもかかわらず、長行はひそかに小倉を引き揚げる動きを示したことを知り(長行のもとには家茂死去の秘報が到達していたのである)、これ以上の小倉滞陣は無謀と判断し、7月30日、熊本藩は突然撤兵したのである。

 □ 驚いた小倉藩は幕府歩兵隊に救援を求めたが、小笠原長行はそれを抑え、他方、小倉藩は唐津藩に出動を要請したが唐津藩はそれに応じなかった。やがて久留米・柳河両藩も撤兵した。同日夜半、長行はひそかに幕府軍艦(富士山丸)に乗り込み長崎に退去、その後大坂に帰った。

 □ 小倉戦線は、この30日の騒動により総崩れとなり、最前線に立たされた小倉藩は孤立無援の窮地に追い込まれた。同藩はやむなく8月1日、小倉城に火をかけ、香春(かわら)の地に退いて守りを固めることにした。翌2日、長州勢は無血のうちに小倉城を占拠したが、小倉藩は以後香春(田川郡)に本拠を置き、ゲリラ化して勇戦奮闘し、12月28日両藩の間に和議が成立するまで対長州戦争を継続する。

 慶喜動揺

 □ 既述の通り慶喜は8月12日に出征の予定も決まったが、一向に陣触れがでない。慶喜がパニックに陥っているらしいとの情報が春嶽の耳に入る。7月以来続々と入る小倉口の敗報に慶喜は完全に戦意を喪失し、長州征討を中止するというのである。この情報を得た会津藩士は、「朝廷よりも既に節刀を賜り、追討の勅諭も得ているのに、小倉云々などと延引するに及んではもはや幕威はこれなきものなり」等として、藩主である松平容保を猛然と突き上げる。桑名藩でも藩士が興奮して松平定敬に詰め寄る騒ぎとなった。

 □ 慶喜は8月14日、会津・桑名にことわりもなく独断で二条関白・賀陽宮(尹宮)を通じて止戦の勅書を願い出た。賀陽宮は「節刀をも賜はりし程の寵遇を請けながら」九州諸藩が撤兵した位のことで俄に出陣を止むるとは何事かと呆れ、8月15日の朝議は欠席者が目立ち空気も索漠とし、二条関白からいわば経過報告をしただけで、何も決めずに散会した。
 8月16日慶喜は陳弁書を提出し、老中板倉伊賀守を連れて参内し、御前評定の席で二条関白や賀陽宮から前言撤回を詰(なじ)られると、九州戦線の崩壊は「仮令(たとえ)ば、過日の暴風雨の如し。樹木を抜き、屋瓦を飛ばし、稀有の珍事を生ぜり。九州の変報、到来するもまたこの如し。」であり、「将軍職への就職は断然辞退し奉れば、さらにその任に堪ふる者に仰せ付けられん事を願い奉る」と述べる有様。天皇はことのほか不興と伝えられたが(それはそうであろう)、朝廷にとって最も恐れなければならないのは権力に空白が生ずることであり、この難局を処理できるのは今のところ慶喜しか見当たらない。慶喜もそれを承知でいろいろ言っているのである。腹は立っても結局慶喜に将軍への就職を仰せつける他はなかった。

 □ 慶喜の時局収拾に関する言い分は陳弁書にある通り、「かかる有様となりては、長州を征せんこと決してその機にあらず。されば速やかに故大樹の喪を発し、征長の兵を解き、大小名を召集して、天下公論の帰着する所によりて進退せんとす。」とすることであった。

 □ かくして長州との間に休戦することが決まり、休戦・撤兵交渉役として勝海舟(軍艦奉行)が選ばれた。海舟は結局この役を引き受け、8月19日出京、22日に広島到着、長州からは広沢真臣、御堀耕助・井上馨が広島に出頭し、9月2日安芸の厳島の大願寺で会談した。勝は慶喜の諸侯招集策を説明して休戦を提案し、征長軍撤退に際し長州側が追撃しないよう要請。長州側はこれを受諾した。海舟は慶喜が「この度の御趣旨は天下の公論御採用」、即ち将来の政治向きは、当時次第に「天下の公論」となりつつあった諸侯会議へと権限を委譲してゆく方向性について述べたのでその趣旨の一札をとったのである。海舟が安芸の宮島で長州藩側と交渉中の8月20日、幕府は将軍家茂の喪を発し、慶喜の徳川宗家の相続を公布した。
 そして8月21日孝明天皇から休戦の勅令(幕府への指図の形をとっている)を引き出した。
大樹薨逝、上下哀情の程もお察し遊ばされ候につき、しばらく兵事見合わせ候様致すべく御沙汰候。就いてはこれまで長防に於て隣境侵掠の地早々引き払ひ鎮定罷りあり候様取り計らふべく候事。
 しかしここにおいて海舟が長州側の譲歩を引き出すため見返りとして提案した諸侯会議のことは全く触れられていない。勅命は長州藩を侵略者として扱い、一方的に占領地からの撤兵を要求するよう「取り計らう」趣旨にすり替えられていた。
 現地の交渉は9月2日に成立し、9月3日に大坂に帰着した勝に対する評判は芳しくなかった。勝は辞表を提出したが、受理されず憤りを含んだまま江戸へ帰った。

 □ 慶喜は9月4日、長州からの全面的な撤兵を開始した。周防大島を数日間占領して荒らしただけで、幕府軍は最後まで防長の地を踏むことができず、石州口の戦いでは、逆に長州軍に浜田まで進入を許した。
 こうして長州戦争は徳川幕府の敗北に終わった。

 □ 慶応2(1866)年12月5日、慶喜は将軍宣下を受けて徳川15代将軍の座に就いた。様々な政治的な駆けひきを経てのことであり、本心では安堵していたであろう。
 これが孝明天皇の最後の政治行動になった。天皇は12月25日、家茂の後を追うかの如く薨去する。
天皇は12月12日に発熱し、痘瘡(天然痘)の症状を呈したが、間もなく快方にむかい、23日には水痘の膿もでおわったところ、翌日夜にはげしい吐き気と下痢におそわれ、25日には顔面に紫の斑点を生じ、血を吐きつつ死亡した。その経過に照らし、その死因は何者かによる毒殺ではないかという説が唱えられるほど奇怪な急死であった。
 孝明天皇は最晩年において、朝臣の大勢を抑えてまで終始慶喜を支持していたのであり、天皇の薨去により慶喜は最大のパトロンを失ったのである。

 戦争の帰趨を決めたもの

 □ 長州戦争は幕藩体制の根本を成す石高に照らしてみると、全国3000万石のうち800万石弱を有する幕府(異説もある)が、諸藩を動員しつつ、公称37万石の長州藩を征圧しようとした戦いであった。幕長戦争は経済力だけをみても圧倒的に幕府が優勢であった。長州藩と裏で同盟の密約を交わした薩摩藩は琉球をふくめて米高でみると37万石程度(籾高でみても77万石)にとどまる。薩長両藩合わせても幕府の10分の1というところである。
 しかし幕府は完敗した。以下においてそれを瞥見してみよう。

 小銃の装備

 □ 西郷隆盛は、明治になって次のように述べている(『史談会速記録』野口参考文献に引用)。
 勝つ見込みはというと、それは長州2度目の征長のときに成算を立てた。歩兵やかれこれの兵は戦ふに足るけれども、その他の兵は眼中に置くに足らぬ。幕府の兵10人にわが兵1人の算盤を立てて行けるという決心を立てた。
ここに「歩兵」や「かれこれの兵」とは、洋式装備の幕府歩兵のことや佐賀、紀州藩兵らのことであり、西郷はこれらの兵は戦うに足るが、その他の兵(親藩譜代をはじめとする諸藩の兵)は戦闘力において劣等であって、長州方1人で幕軍10人に当たりうる、とし、勝敗の帰趨は実に戦闘力(火力)の差にあることを明確に認識していたという。 

 □ 幕府歩兵はゲベール銃を装備するようになっていたとはいえ、ゲベール銃は世界的にみると既に旧式化し、小銃はミニエー銃へと進歩していた。ミニエー銃は、本来滑腔砲であるマスケット銃の銃身内腔にライフリング(施条)を刻みこんだもので、ド・マスケットとも呼ばれる。従来球形の弾丸が汎用されていたが、ミニエー銃は椎の実形をした弾が用いられた。ライフル銃としては初期の物で、弾丸は1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された(ミニエー弾)。


弾丸比較tri.jpg

ミニエー弾(右)と丸弾(左)。いずれも鉛製である。
ミニエー弾は椎の実型をしており、
3条の溝が切られて凹凸があり
これが銃身に施されている施条に噛み合って発射された。

 □ ミニエー銃はゲベール銃と同じ先込めで、外見も余り変わらないが、内腔にライフリングが施されている(施条)ことによって発射された弾丸には十分なスピンがかかり、命中精度が上がり、弾丸が施条と噛み合って発射されることにより銃腔内において弾丸の周囲へのガス漏れが防止されたため飛距離が増大した。また薬莢(やっきょう)(紙製)の工夫により装弾が容易になり、連射が容易になった。


ライフリング.jpgライフリング

   
  このミニエー銃からは各種の改良型へと受継されてゆき、世界的にみるとミニエー銃は我国に輸入されたときには既に流行遅れになって居たけれども、在来型のマスケット銃に比べると、驚くほど高性能であり、有効射程距離は約270メートル、最大射程は914メートルとゲベール銃の3倍に増加した。

 長州諸隊の編成

 □ 元治元年3月13日(この年8月第一次長州戦争始まる)に、村田蔵六(後の大村益次郎)が防禦掛兼兵学校用掛に抜擢され、兵制の一新に着手した。因みに村田蔵六は緒方洪庵門下の医師であるが、後に西洋兵術書の研究に勤しみ鉄砲の機能に着目する。オランダ人クノープの兵術書を翻訳し長州藩の講義に用いた。

  同年3月15日、藩当局は、これまで有志の集団だった諸隊を正規の兵制に編入する。

 □ 長州諸隊の規模は区々であるが、およそ次のようであった。
①歩兵約30人が1組になって「伍」を組織する。「伍」が最小の戦闘単位であり、「伍長」を置 き、「伍」を指揮する(一伍の員数はまちまちである)。
②数個の伍(箇数は一定せず)を以て小隊とし、小隊に隊長及び押伍(おうご)を置く、
③数小隊を以て一隊とする。
④隊に総監〔また総督と称す〕を置き、隊中一切 のことを総掌し、賞罰を司り、以て厳に隊中の規律 を維持する。
⑤隊に軍監を置く。軍監は総監の副長である。隊兵を二分する場合にはその一部は総監これを統率し、その一部は軍監これを率いる。
 その他、諸差引方あり、書記あり、稽古掛あり、会計方あり、器械方あり、また斥候を置く。

 主な諸隊の規模及び駐屯地は第1表の通りである。

第1表 長州藩諸隊一覧
第1表 長州藩の編成.jpg出典:野口武彦「長州戦争―幕府瓦解への岐路」
117頁(末尾参考文献参照)

  この表は諸隊の一部を記載したもので、本文にも述べたように様々な隊があった。 

 軍装と戦法

 □ 先にも書いたが島原の乱(1637年)以降、徳川幕府は戦争らしい戦争はしたことがない。従って戦法も古式に則るほかはない。例えば彦根(井伊)藩兵と言えば、赤備えの甲冑が有名であるが、他藩の将兵も同様、甲冑を着用した者もいたようである。しかし運動性に欠けるため小具足を着用した者もいたようである。戦法も長槍の穂先を揃えて密集体勢をとり、法螺貝と太鼓にあわせて進軍するという伝統的なものであった。

 □ 対する長州藩兵は、少数規模の小隊に別れて散兵を形成し、殆ど全員が銃(ミニエー銃)を携帯する。
 散兵(skirmishers)はもともと西欧の軍隊にあって本来本隊に付属して、密集体形をとるその活動を援けるため一時的に運動するためのものであったが、やがて遠距離から的中率が高く火力に優れた火器が出現するに及んで、密集体形をとる必要はないどころか、徒に狙い撃ちの対象とされるに応じ、軍隊編成の基の思想が各個機動へと変化するに従い、密集体形は19世紀には殆ど姿を消していった。歩兵が密集体形を取ったのは兵の逃亡を防ぐためでもあったから、国民国家のは発展に伴い兵の意識の高まりが生じ、逃亡に対する心配は少なくなったことも散兵に拍車をかけた。西欧では既に歩兵は散兵化していた。長州藩の場合臨時編成の諸隊の寄せ集めの如くであったから、全部隊が散兵であったようなものである。
 即ち長州兵は戦場の地物、地形悉く利用するという後に明治維新後の軍隊編成を先取りした形の近代歩兵の原理を先取りして体現しつつあったのである。

 □ 幕府軍の戦況報告に「長人千人ほど出候噂に候えども、合図にて散兵に分かれ、二人位ずつの打ち方。草木の影、あるいは百姓屋の屋根の上などより打ち出し、身体顕れ申さず。一場所より二発は打ち申さざる由」とある。
 当時の黒色火薬は、発射されると濛々たる白煙を上げ、発射地点を教える結果となるので、一発放つとただちに場所を変える。また長州兵は立ったまま弾込めをせず伏射の姿勢で行う。山を登り、また駆け下り、屋根の上から発射してはすぐ飛び降りる。敵が迫ると密集せずに、さっと散るなど、密集隊形をとる幕府軍の多くにとって見たこともない戦いぶりを示した。

 □ この期間有志の間に回覧されていた「筆写新聞」に福山藩士がメモ式に書いたものがあり、石州口における戦況が掲載されているという。以下野口「幕府歩兵隊」からの一部転載させていただく。

 □ 井伊家はともかく実際には流石に鎧兜の正式装備で戦場に臨む武士は少なかったが、それでも簡単な小具足―籠手や脛当といった防備具―だけは身に着けて出陣した士卒は多かった。幕府歩兵や西洋式編成をとる幕軍の将士を除けば諸藩の将兵の戦いぶりは運動性を著しく欠いていた。
 
 大口袴(裾の口の大きな袴)は道のない場所を駆け回る間に樹木に引っかかってずたずたに裂け、下を切りとるしかなかった。伊賀袴(たっつけ袴)でさえ駄目である。股(もも)引(ひき)かダン袋(ズボン)でないとどうしようもない。「戦場に出るなら具足ならびに赤・白・黄の筒袖・陣羽織・大口(袴)の類、かならず用ひまじく、また銃はミニー。ゲベールにては丁間(射程)飛ばず、中り(命中)粗く、かならず用ひまじ」
と、手厳しい。

 □ 目立つ陣羽織や筒袖は敵から狙い撃ちされる。ためしに木の枝に陣羽織を掛けて突き出してみたら、たちまち何発もの飛弾に打ち抜かれたという報告もある由。
 長州藩は、森林及び地物に拠り、敵の将校を狙撃せしむるがために「致人隊」という名の射撃の名手15名程の狙撃隊を編成した。

 アウトレンジ

 □ 最大の脅威は身をもって知ったミニエー銃の性能であった。「なにぶん賊は打ち候も山上より打ち卸し、此方よりはゲベル筒にて届き申さず(芸州表出陣中日記)、長州兵は、4,5町(436~545メートル先からミニエー銃を以って撃って来る。敵の銃はライフル銃のため銃弾は唸りをあげて耳もとを掠める。当方の銃は敵に届かない。敵の銃は味方が装備するゲベール銃より射程が長いので射程距離の外から攻撃することができる。幕軍は見たことのない兵と戦っていた。前線の至るところがまるで屠殺の様相を呈した。

 □ この度の戦いによる手傷は刀槍の疵は一人もなくもっぱら弾丸疵のみである。そのようなわけで、これからは銃戦だから、稽古着で戦闘した方がいいとばかり、四両も掛けてあつらえた鎧兜、脛当などを河へ投げ込む者もあらわれた。鎧兜の代りに10両ほども上乗せしてミニエール銃を買った方がましだったというわけである。

 □ 6月10日、芸州口幕府軍先鋒の井伊家の軍勢は、芸防国境(現在の広島・山口県境)の小瀬川を渡河して対岸の岩国へ侵入しようとした。突然、右手の山上に待ち伏せていた長州兵の一斉射撃を浴びせられ、井伊勢はたちまち崩れ立った。
 算を乱してとはこのことで、長州勢の軍監も「此度の大勝利、実に意外に出候」と報告しているほどの戦果だった。井伊勢の逃げ去った後には、夥しい装備が遺棄され、「何ぶん甲・鎧夥しきこと数を知らず」とする戦闘報告書の記述は何とも哀れを誘う。 

<参考文献>
・野口武彦「幕府歩兵隊―幕府を駆けぬけた兵士集団」(中公新書、2002)
・野口武彦「長州戦争―幕府瓦解への岐路」(中公新書、2006)
・元綱数道「幕末の蒸気船物語」(成山堂書店、2004)
・保谷徹「幕末日本と対外戦争の危機-下関戦争の舞台裏(吉川弘文館歴史文化ライブラリー289、2010)
・家近良樹「江戸幕府崩壊 孝明天皇と『一会桑』」(講談社学術文庫、2014)
・宮地正人「幕末維新変革史(上)」(岩波書店、2018)
・綱淵謙錠「乱」(中央公論社、1996)
・綱淵謙錠「幕臣列伝」(中央公論社、1981)
・石井寬治「明治維新史―自力工業化の奇跡」(講談社学術文庫、2018)
・松原隆文「最後の将軍徳川慶喜の苦悩」(湘南社、2019)

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