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弁護士 堤 淳一

2022年03月04日

太平洋の覇権(35)-----幕府崩壊の翳り

(丸の内中央法律事務所報No.40, 2022.1.1)

長州藩による武器の調達

 □ 長州戦争において第一等の役割を果たしたのは何と言っても銃砲である。銃の優劣とその機動的用法が戦の帰趨を決めた。もし長州勢がライフル銃隊を組織していなかったとすれば、中途停戦等、諸般の事情から戦いは痛み分けに終わり、幕府軍は勝てはしなかったとしても、僅か3か月であっけなく負けに終わることはなかったであろう。
 しからば長州藩は銃砲をどのように調達したか。少し時を過去に遡ってこの事情に立ち入ってみることにする。

 □ かねて安政5(1858)年に締結された日英通商条約は、「軍用の諸物は、日本役所の外(ほか)へ売るべからず」とし、外国が日本に武器を輸出する先を幕府に限定した。武器の自由貿易を認めると、国内の反政府勢力が外国製の武器を輸入して、内乱をもたらしかねず、かくては正統政府である幕府転覆の原因ともなるからである。
 しかしそれにもかかわらず武器の密輸入を防ぐことはできなかった。文久3(1863)年10月、薩英戦争を終結させる条約を締結するとき、イギリスの軍艦の購入を斡旋することという条項が定められたことは前に触れた。軍艦にかぎらず、当時、薩摩藩とイギリス商人は活発に貿易を行い、気心を通じ合わせていた。
 薩英戦争におけるイギリス東洋艦隊司令長官は、イギリスの艦隊が鹿児島湾に集結して薩摩と臨戦態勢にあるというのに、イギリス商人は自らの利益のために日本人にあらゆる武器その他の軍需品を供給し、利敵行為を行っていることを苦々し気に本国の海軍省に報告しているという。

 □ このように薩英戦争開戦前から、イギリスから兵器を密輸入していた薩摩藩は、薩英戦争講和後にイギリスから兵器の輸入を活発化し、イギリスの有力な武器密輸出相手となっていったのである。

 □ ところで、予てより第2次長州戦争という内戦勃発の気運に注目していた日本駐在の外交官の動きは慶応の年に入ると慌ただしくなり、慶応元(1865)年5月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国代表は、「四国覚書」を締結した。
 これは来たるべき幕府と長州の戦争に際し四国は、
  1.厳正中立
  2.戦争に不干渉
  3.密貿易禁止
を相互に約し、日本に対する内政不干渉を申し合わせたものである。

 □ イギリスが長州藩に心を寄せていることは、他の三国にとって周知のことであり、四国共同覚書がうたった「厳正中立条項」(第一項)も「絶対不干渉条項」(第二項)も、日本の正統政府である幕府に敵対する長州藩をイギリスが支援しないよう三国が牽制した条項と言ってよい。
 幕長戦争で、イギリスが長州藩を軍事支援し、もし幕府が敗れて政府が転覆し、長州藩の天下になれば、対日貿易は長州藩を軍事支援したイギリスの独擅場となりかねない。かかる事態は他の三国にとって避けなければならない。安政の開国は各国に貿易の「機会均等」を保障したはずではなかったか。

 □ 慶応2(1866)年6月7日、幕府軍艦が周防大島郡を砲撃し、第2次長州戦争が始まって間もない同年8月25日、幕府は触書を発して長州藩に対する武器の内国貿易を禁止した。
 「毛利大膳父子叛逆につき、近国の面々え追討被仰付候につきては、武器その外、米穀等を始め、諸国(注:国内の諸藩)より長防の両国え輸入候儀相成らず」
というものである。密貿易相手として薩摩藩が意識されていたことは言うまでもない。

 □ ところで長州藩士桂小五郎は、予て文久3(1863)年5月の下関砲台から外国軍艦に対する砲撃事件(攘夷の暴発的実行)の以前からミニエー銃の購入に腐心していた。特に元治元(1864)年7月の禁門の変に際して、当時敵であった薩摩兵による銃撃によって手痛い目に遭わされて以来、長州藩は手持ちの銃装備では「大いに不利あるを知り、今日の機に乗じ兵勢を一変せん」として、軍の編成を銃中心に改革しようとしていた。
 そうした中、長州藩は土佐藩士坂本龍馬の仲介でグラバー商会から禁制品を購入した。伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)が暗躍し、慶応元(1866)年7月薩摩藩名義を以って銃器を購入したのである。
 同年8月26日、三田尻と下関に陸揚げされたのは、ミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺であった。価格はミニエー銃1挺につき、18両、ゲベール銃は1挺につき5両であった。

 □ 買い付けられた4300挺のミニエー銃はさっそく全藩規模で活用される。慶応元(1865)年4月、既に藩当局は士卒に対し「火縄銃・鎧兜を売り払って施条銃(ライフル)を年賦で購入すること」を命じていた。買いたての銃器はすぐ士卒に転売された。閏5月には歩兵塾が作られ、その第1期生には「小銃技芸より、小隊運動ならびに司令の法則を学ぶ」ことが課された。もはや奇兵隊のような志願兵だけではなく、在来の足軽隊も「施条銃隊」に再編成された。
 このような装備・編成が後に第2次長州戦争において幕府軍に対抗し絶大な効果をもたらしたことは前に述べた。

 □ さはさりながら、四国共同覚書による密貿易禁止、及び8月25日付の内国向け対長州武器輸出禁止令が、長州藩にとって死活問題となったことは言うまでもない。またそれはグラバーにとっても経営上由々しい問題であった。
 そこで、桂小五郎はグラバーと協議をする。グラバーは「下関では取引できないが、長州候の船で上海へ行って、そこで(小銃等を)買うなら差し支えない」と出貿易の策略を授け、その後慶応2年に薩長同盟が合意されると、通商条約第14条も四国共同覚書も無視し、反政府勢力である長州藩への武器密輸出を推進した。

グラバー商会

 □ グラバー(トーマス・B・グラバー 1838-1911)は18歳でスコットランドから上海に渡り、21歳の時に長崎へやってきたといわれ、ジャーデイン・マセソン商会で働き、その後独立してグラバー商会を設立、慶応元年には社員数15名を数える長崎で最大の外国商社となった。幕末において佐幕・討幕勢力のいずれにも武器弾薬を販売し、彼はある意味で明治維新の立役者である。明治政府は明治41年に外国人としては破格の勲二等旭日重光章を彼に授けている。

 □ ところで当時アメリカには建国以来未曾有の大変事が生じていた。南北戦争である。1861年、連邦側のサムター要塞を巡って発生した砲撃戦をきっかけに4年にわたって南北両軍の間に戦われた南北戦争は1865(慶応元)年4月9日、南軍がアポマトックスにおいて北軍のグラント将軍(後の合衆国大統領)に降伏し、事実上終結した。 
 南北戦争は4年にわたり両軍合わせて動員兵力420万人、戦死者62万人(北軍36万人、南軍26万人)という大戦争(数字には異説あり)であり、この間当時の国際的水準に照らし最も性能の高い小銃が大量に生産され、武器史上に画期的なインパクトを与えた。
 終戦により余剰となった最新鋭の小銃が、清国の上海あたりへ大量に出回ってきた。
 ヨーロッパやアメリカから多くの商人がやって来て上海を拠点にあらゆる商品を扱ったが、日本への小銃密輸出は危険だが高利益を生むビジネスであった。これを最も積極的に行ったのは、上海に強い商圏を確保していたイギリスであった。

坂本龍馬

 □ 上述の通りグラバーが如何に野心的であろうとも、外国人は開港都市である長崎において限られたビジネスを行い得るに留まる。ここに密貿易の禁制をおかし、海上輸送や貿易をビジネスとする新しいタイプの武士が登場した。土佐脱藩(郷土)浪士、坂本龍馬である。
 坂本龍馬は28歳の時土佐藩を脱藩し、九州、大坂を経て江戸へ出て、当時幕府軍艦奉行並であった勝海舟のもとへ入門し、勝の口利きで幕府の大久保一翁や、越前藩の松平春嶽の面識を得る。余程魅力的な人物であったのであろう。
 幕府が勝海舟の提案で文久3(1863)年に神戸海軍操練所を開設すると、坂本龍馬はその塾頭となり、土佐をはじめ諸藩の浪士を集めた。ところが、神戸海軍操練所はやがて土佐勤王党や、禁門の変の後長州の武士の蝟集するところとなり、当局の危険視するところとなり、廃止されるに至った。龍馬たちは今度は薩摩藩家老小松帯刀や西郷隆盛の知遇を得て慶応元年4月、鹿児島へ渡った。坂本とその仲間たちは、この年の5月、長崎の亀山を拠点に亀山社中を結成し、薩摩藩から給与を受け、薩摩藩が長崎で購入した汽船の回漕業者となった。

 □ さらに翌閏5月、坂本龍馬は下関へ渡って長州藩の桂小五郎と会見し、亀山社中が長崎や京都その他各地で仕入れた諸藩、諸外国の政治経済の情報を披瀝するなどして自分を売り込み、薩摩藩と長州藩の提携話を、折にふれ持ち出した。
 龍馬はグラバー商会から薩摩名義でする銃の「買付」に向けて動き、6月24日に長州藩から要請のあった武器の輸入について西郷と会見し、薩摩藩名義で銃を購入することを合意した。こうして同年8月26日に長州藩がミニエー銃を入手できたことについては先述した。

三角貿易

 □ 先に薩摩藩経由でグラバー商会から銃の密売を受けたといっても、これが継続的取引に発展する見通しが立っていたわけではない。長州に対する銃の貿易制限令により、対長州の密貿易を取り締まる幕府警察(長崎奉行所等)の目も厳しくなったという事情のほか、何よりも長州藩に十分な金があるわけではない。他方薩摩藩は軍隊の増強のため農民を兵士や輜(し)重(ちよう)に徴用したため農業労働力が不足し、慢性的な米不足に悩んでいた。
 そこで、ここに注目し、銃はグラバー商会から薩摩藩名義で買い受けて、幕府警察の眼を晦(くら)ますと同時に、長州藩からは薩摩藩に米塩その他の物産を供給して銃の代金の代物弁済とし、グラバー商会には薩摩藩から銃の代金を支払う「三角貿易」のビジネスモデルが出来た。
 こうして長州藩が薩摩藩名義で密輸入した銃火器類は、薩摩藩の船や、長州藩が薩摩藩から購入した船で長州藩領内へ搬入された(【第1図】三角貿易参照)

【第1図】三角貿易




薩長の盟約

 □ 文久4(1864)年8月に勃発した禁門の変(蛤御門の変)において薩摩藩は会津藩と組んで長州藩と戦い、長州側は両藩を「薩賊会奸」と罵った。しかし薩摩藩は終始一会桑勢力と心を一にしてきたわけではなく、薩摩は西郷隆盛の周旋で、長州藩三家老の切腹と引き換えに和議の成立に尽力した。第二次長州戦争開戦前、長州処分寛典論をとるようになっていた薩摩藩は、大久保一蔵が征長の勅許に反対する論陣を張ったことは前号に書いた。

 □ 元治元(1864)年9月22日、将軍家茂が参内して征長の勅許を得、翌23日に大坂へ進発したが、西郷隆盛は、将軍の進発を一会桑の働きかけの結果と受け止めていた。即ち、現在の朝廷は一会桑の三者によって締付けられている。三者が朝廷に対して長州戦争を強請したため、事理の是非は全く糺されず、勅許がなされた。かくては正論を述べる手段がなく、一会桑及び板倉老中、小笠原老中の横車によって長州再討に落ち着いた、このようなことを西郷は縁者への書簡で述べているという。

 □ 京都政局において一会桑と朝廷の融合体制が形成され、諸藩の関与・介入が封ぜられてみると、就中はじき出された格好になった薩摩藩は、国内政治勢力の一角に地歩を占めるためには政局の再編成を志し、新たな方策を求める必要が出てきた。

 □ 元治2(1865)年2月以来、薩摩藩士有志は長州藩士や民間人(豪商)と密かに薩長和解について談合を持ったが、禁門の変における軍事衝突のしこりは深刻であり、「薩賊会奸」として非難を浴びせた感情は容易に氷解するものではなかった。

 □ しかし第二次長州戦争が間近になるに従い、かつ慶応2年8月に長州を視野に入れた武器調達の禁令が発せられるに及んで、旧来の恩讐にかまってばかりはいられない。下世話に言う「背に腹はかえられない」のである。
 慶応2(1866)年1月21日、坂本龍馬の仲介も与って、京都薩摩藩邸において西郷隆盛と桂小五郎との間に盟約が成立した(本紙前号39号には3月7日と表記したがこれは陽暦表示)。薩長同盟は6カ条から成り、要約すれば次の通りであった。

  ①幕府と長州藩が開戦した時には、薩摩藩はすぐさま2,000の兵を出して在京の兵と合して京坂を守る。
②長州藩が勝った場合、
③負けた場合、
④開戦しなかった場合のいずれも薩摩藩は必ず朝廷に周旋する。
⑤薩摩藩率兵上京の上、一会桑の朝廷私物化が改まらない場合は武力で決着をつける、
⑥今後薩長両藩は堅く結束して皇威回復のために一致協力する。

   2月9日、長州藩当局は、
「その期に至り候へばまたぞろ軍勢四境に迫り候は必然の事につき、かねがね御手組仰せ付け置き候通り、諸手規律を相守り、御指揮に随ひ武威を堕とさず、孰れも一致、義勇決戦の覚悟これあるべし」
と布告して藩内を引き締めた。
 慶応元(1865)年歳末に、長州藩に対する第1次長州戦争のあと処理をどうするかが幕閣で諮られ、慶応2(1866)年2月に問責使(家老小笠原長行(ながみち))が下坂した頃、裏ではかかる盟約が成立していたのである。

 □ 薩長盟約と言われる出来事を証する文書は、桂が薩摩から提示を受けた内容を確認するため、坂本に送ったこの手紙が唯一のもので、従来、この文書が薩長両藩が「幕府」を相手に戦うことを想定した、つまり「武力倒幕」を確認しあったことの証左であると解されてきたが、そうは読めないと解する説がある(家近「江戸幕府崩壊」―孝明天皇と「一会桑」後掲参考資料参照)。
桂書簡には、
 兵士をも上国のうへ、橋会桑等も只今のごとき次第にて、もつたいなくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み、周旋尽力の道をあひ遮り候ときは、つひに決戦におよび候外これ無しとの事 (傍点家近氏)。
とあり、この記述を素直に読めば、この段階で薩長が戦う相手に想定されているのは一会桑の三者等であって幕府本体ではない。

 □ ここには、一会桑らが薩摩藩の朝廷に対する周旋をさえぎるときは戦う、と記されているが、長州藩の復権を薩摩側が手伝うということを言うにとどまり、これが武力倒幕をめざす攻守同盟を証するものではない。しかし、同時に、場合によっては、一会桑三者らと決戦となる覚悟を薩摩側が桂に伝えたものである、とされる(同書158頁)。
 私も素人ながら、家近説に近い感想を抱いており、確かにこの時点で、薩長は共同して一会桑が主導して侵入する軍勢を跳ね返すことが約され、長州による武器調達への協力も確かに行われた。しかし薩長両藩が倒幕に自信を持ったのは第二次長州戦争に圧勝してからのことであり(それでもなお武力討幕に踏み切るは"おっかなびっくり"ではなかったろうか)、この「桂書簡」を以って倒幕が同盟された証明とすることは無理ではなかろうか。

【第2図】薩摩藩士

  撮影者:フェリーチェ・ベアト(イギリス)
撮影年:慶応4年頃
画 像:鶏卵紙に手彩色(203×254mm)
十人ほどの群像写真の一部
軍服姿の下士官らしき人物を抜き出した。軍服はイギリスからの輸入品であろうか。



戦争のインフラ

 □ 戦争をするには巨額の費用(戦費)がかかる。以下において幕府と長州・薩摩の経済力・戦費の調達その他戦争の大義名分等、戦争の基盤と言った要素について触れてみる。

 □ 幕府の場合
 幕府の天領からの経常収入(年貢米)は、知行地のない蔵米取の幕臣への給与や役職手当・大奥経費など経常支出にあてられたが、幕末期における臨時戦費の多くは、貨幣改鋳益からまかなわれているようである。
 しかし貨幣改鋳益は文久3(1863)年頃がピークで以後、漸減し、以後は大阪商人への巨富の献納を命ずるなど四苦八苦したことは以前に書いた。幕府は窮して慶応2(1866)年5月実施の生糸・蚕種改印令を発し、産地において手広く生産者に課税しようと企図したものであるが、農民の反対に遭って頓挫した。また幕府は幕末の8年間に開港した三港(横浜、箱館、長崎)からの関税収入(海関税)も軍費に充てられたと思われる。

 □ フランスのレオン・ロッシュ公使(文久3年赴任)は、殆ど内政干渉とも言える露骨な助言を幕府に対して行った人物であるが、陸海軍建設費にあてる収入として、家屋・宅地税、商人税、船税、酒・煙草に課する消費税や産地で茶・生糸に課する税をあげ、土地から上がる米に対する課税(現物地代)の外に商人税や消費税を課することを進言した。しかしその勧告は実現しないまま幕府が消滅してしまい、幕府はこの画期的な経済発展の成果を十分吸収し得なかった(こうした制度は明治政府によって実現された)。

 □ 長州藩の場合

   長州藩の多額の軍事支出を支えた中心をなすのは、全国的にみて突出する高率な米納年貢課税率にあった。明治6(1873)年の地租改正直前の田畑生産量に対する貢租比率は、全国平均で26.7%であるが、このころになっても山口県のそれは36.7%と断然高いといわれている。
 そうした財源をもとに、長州藩は、慶応元年には薩摩藩名義で大量の小銃を購入しており、その代価はミニエー銃7万7400両(1挺18両)、ゲベール銃1万5000両(1挺5両)、合計9万2400両にのぼった。また、奇兵隊などの諸隊の兵士は、一種の傭兵であるから給料が支払われ、小銃なども藩から支給されたものもあったから、藩財政に及ぼす負担は極めて過重であった。

【第3図】征長軍の原藩籍

 □ 薩摩藩の場合

   薩摩藩は支配下の琉球との交易上必要だという理由で、文久2(1862)年8月、琉球通宝を3年間鋳造する特許を幕府から得た。そして実際には翌年末からそれと同形・同量の幕府銅銭天保通宝を大量に模鋳し、3年間に天保銭290万両余を鋳造し、その3分の2の利益を得たという。つまり藩外でこれをさかんに通用させて巨利を博したのである。また薩摩藩は慶応4(1868)年には当時貿易活動よりも諸藩への金融活動に力点を移しつつあったオランダ貿易会社ボードインから洋銀約76万ドルを借入れ、英仏商人への武器代金支払にあてている事実も見逃すことができないとされている。

戦争の目的と大義名分

 □ 回顧してみると第二次長州戦争は明確な目的を欠いていた。長州が下関戦争を開始し、それにより300万ドルの損害賠償を受ける羽目に陥ったことが問責の対象となるというならば、それは幕府が全国に布達した攘夷決行の命令に従ったのみであるとする言い訳が立とうか。八・一六の政変により京都を逐われた長州藩勢が蛤御門の変(禁門の変)を起こし、御所に発砲し市域を焼き、天皇の怒りをかったことを罪に問うというならば、それを咎めた第一次長州戦争(和議により終結)によって長州藩二家老の切腹と三条実美の追放など、それなりの決着がついているのであるとする申し開きが立つであろう。
 第一次長州戦争後における同藩に対する幕府の「厳罰論」、そして長州藩がこれに応じないとみるや、今度は10万石への「削封論」、これらのいずれもやがて第二次長州戦争を仕掛け、長州を制裁しようとする名分たり得たであろうか。要するに「長州処分」にこだわり、幕府の威信を誇示するという膺懲論は有力大名たちにも受け入れられなくなっていたのである。

幕府の大軍と士気の低下

 □ それでも慶応元(1865)年5月16日将軍家茂は旗本、諸藩を動員し江戸を進発して、紆余曲折あったが、慶応2(1866)年6月7日長州藩周防大島において戦端を開いた。13箇月、軍首脳、旗本、幕府歩兵等、万余の大軍が大坂に滞陣する。この間、四箇国による兵庫開港、大坂開市の問題が下関賠償金支払いの問題とからんで幕府軍の足を引っ張り、慶応元(1865)年9月以降、慶応2年11月22日に開港に対する勅許が得られるまで大坂から動けなかったのである。

 □ 無為に駐屯した各地の将兵の士気も低下し、第二次長州征伐の直前に長州藩の動向を偵察するため広島へ出張した新撰組局長近藤勇は、「長州勢は必戦を覚悟し、『防長の地はたとえ一石でも削られることは承諾しない』との意気込みである」。ここで負ければ、36万石の長州藩は取り潰しか大幅な減封となって、武士はもとより領民が食い詰めるのは必定であり、農民・町人に至るまで戦意は高かった。「しかし幕府旗本勢の士気は少しも振るわず、誰もが土産物などを買い求め、帰ることばかり待ちわびている」といったような報告をしているという。

 □ 長期に及ぶ幕府軍の足留めは長州藩にとってはラッキーな時間的猶予であり、この間大車輪の勢いで軍備の増強に邁進することができた。他方幕府軍にとってこの遅延は戦機を失う痛恨事であった。

社会不安

 □ 第二次長州戦争が始まった慶応2(1866)年は天候不順のため凶作となり、大規模な都市の打毀し(兵庫、大坂、江戸等)と各地に世直し一揆(武州、信州等)が頻発した。安政5(1858)年の開港以来、日本の国内市場は強いインフレに見舞われ、経済が混乱したことが原因となった。また第二次長州戦争を見込んで全国規模で米麦の買い占めが行われ、物価騰貴に拍車をかけた。

 □ 長州藩は戦争期、下関港の交通を遮断し、このため蝦夷地から日本海を西航し、下関を経由して大坂に到る西廻りの海運が機能しなくなった。なかんずく大坂市場に入ってくる米の量が著しく減少し、第二次長州戦争に備えて大量の米が備蓄されたことと相まって、米価の高騰を招き、民衆の一揆・打ちこわしを煽ることになった。藩レベルにおいても金融に支障が出た。「下関が閉鎖されているので米はあれども金が廻らない」という具合で、日本海側にある因幡藩にその例をみる。

 □ 更には軍費を捻出するため慶応元(1866)年5月以降、幕府は天領全域に御用金の賦課を始めた。それは資産家の剰余金の一部を捻出させるという範囲をはるかに超えた、収奪的性格すら帯びるようになったと言われている。

支配構造の変化

 □ 長州戦争はさきにみたように一会桑の勢力が主として推進し、それに天皇を含む朝廷上層部が協力して幕府の主戦派の支持を得て行われたと言える。多くの藩や知識人、あるいは民衆の支持を広く得ていたとは言えなかった。
 文久期(1862年)以降、京都に乗り込み、中央政局に大きな影響を及ぼすようになった有力大名たち(松平春嶽、山内容堂ら)は、朝廷・幕府・諸藩の三者が話し合って(公議公論の尊重)国是を決定することを望むようになっていた。それゆえ一部の勢力と結びつく一会桑的行動は批判されざるを得なかった。征長戦に参加した諸藩の間に当初から戦闘意欲の著しい欠如がみられたのはそのためでもある。出兵の辞退、戦闘の回避、戦線からの離脱などについては既に述べた。 

慶喜解兵の波紋

 □ さきに述べたように慶応3年8月14日、慶喜は会津、桑名の両藩に無断で二条関白を通じて止戦の勅書を願い出た。これに先だって孝明天皇は8月4日の朝議において、山階宮、正親町三条らが主張する解兵論(止戦)を阻止し、征討決行を決していたのに、慶喜本人から止戦の申立てとあってはすんなりと受けるわけがない。
 二条関白は、8月14日にやってきた慶喜に対し、「(慶喜の考えに)はなはだ(御)不同意、勅諚もこれ有り候上に、左様申し立てられ候とて、綸言が左様に安々出し引きの出来候ものか」
と激しい不満をぶつけた。
 孝明天皇・二条関白・中川宮の三者が揃って慶喜の変説に猛反発したのは、当然のことであった。慶喜の要求を受け容れれば、自分たちの行動が間違っていたということになるからである。

 □ 8月16日慶喜は陳弁書を提出し、さきの将軍(家茂)の喪を発し、征長軍の解兵、大小名による公論を以って今後の国策を決することを声明したことは前号(第39号)に書いたが、幕臣の間に起こった慶喜に対する憎悪と怨嗟は激しいものがあった。一会桑政権の一角をなす会津藩にとっては慶喜の変説は手酷い裏切り行為以外の何物でもなかった。方針転換を知らされると、8月11日、松平容保は激烈な批判を連ねた書面を慶喜に送りつけ対決する姿勢を示した。

一会桑政権の崩壊

 □ 会津藩内における「中央政局」との関わり合いに関する考え方の相違は容保の京都守護職就任をめぐって既に顕著であった。京都守護職の維持には巨額の出費を要することから藩の内政を重視する国元の家老たちはもともと就任に反対であった。対するに容保を擁護して一会桑政権を担う京都駐在の公用方とは時々に応じて対立していた。主として中央政局との関わりが過ぎると藩の財政負担に大きな影響を及ぼすからであった。
 この在京家臣団は、以後、藩主の松平容保を激しく突き上げる一方で、九州諸藩が解兵しても、徳川慶喜が出陣すれば戦意が高まると号して、中川宮邸などに押しかけ、勅命をもって断然慶喜の出征を促すよう働きかけ、慶喜の翻意を促した。

 □ 幕閣においては、10月6日に老中の小笠原長行が御役御免となり、同月17日には松平容保が京都守護職の辞職を申請する。これをもって、朝廷上層部と一会桑三者(および小笠原ら一部老中)との強い結びつきに基づく権力構造(「京坂朝幕融合政権」(宮地正人「幕末維新変革史(下)」による。後掲参考文献参照参照)は崩壊した。

 □ これによって今まで一会桑や孝明天皇によって押さえ込まれてきた勢力は勢いづいた。
 岩倉具視は、
「一橋如何に困苦致し候とて、箇様にも意外に出で候とは、実に案外この事に候。ここに至り候事、朝廷のみならず、天下の大幸、これに過ぎず候」「朝廷の大事、また見るべからざる大機会、今を失ふて何をか他にも求め候にや」
 また、大久保利通は、「誠に失ふべからざる機会」ととらえ、「共和之大策を施し、征夷府之権を破り、皇威興張之大綱あひ立ち候」よう尽力すべきことを西郷隆盛宛の書簡で求めている。

 □ 岩倉は8月30日、大原重徳、中御門経之らをリーダーとする22名の公家が参列し孝明天皇への諌奏を企画した。その要点は、全国諸大名を速やかに召集すること。禁門の変などで処罰を受けた親王・廷臣の赦免、朝政改革、征長軍の解兵であった。とくに急がれたのは、慶喜の変説後も会津べったりで嘆かわしいと評されていた中川宮の朝廷中枢部からの追放であった。
 岩倉らが行った諌奏の諸点は却下されたが、諸藩召集の件は結果的には孝明天皇によって容れられた。9月4日には二条斉敬(左大臣・関白・内覧・氏長者)と中川宮(国事扶助)が辞意をそれぞれ表明し、ともに参朝を停止する。

薩摩藩の揺らぎ

 □ さきに徳川慶喜の停戦・諸侯召集の意思表示を受けていた朝廷は、最終的には、孝明天皇の決断で、9月8日に藩主若しくは世子・重臣の上洛を命じる沙汰書を、計24の有力藩に発した。もちろん、そのなかには薩摩藩も含まれていた。
 このような事態に対応し、10月26日家老小松帯刀と西郷が上洛し、薩摩藩在京指導者との間に意思調整が行われ、京都の情勢に鑑み、幕府と協調する方向で路線転換を行い、幕府との間に協和関係を築く努力が傾けられた(もともと慶喜を政界に担ぎ出したのは島津久光であるという事情もある)。もっとも慶喜の変説後も引き続き慶喜批判を繰り返してきた大久保利通の考えとは相反するものであった。

将軍空位

 □ 徳川慶喜が新たな選択を行った慶応2(1866)年8月から、将軍宣下を受ける同年12月5日までの間将軍位は空位であった。慶喜が長州戦争の止戦、解兵を転機として、後にみるように、幕権の回復、拡大を企図したことは否定し得ないとしても、一会桑のシンパ勢力や幕臣たちの信用を失ってみれば、従来のような江戸幕府を支配の頂点にいただく国家の再建を前提とした政治活動は、慶喜にとってもはや不可能となった。将軍空位期の慶喜は、徳川家と雄藩との関係改善を通じて、彼らとの話し合いで、重要な案件の解決を図って行くことを決意したとみられる。それには当然旧来の幕藩制国家の改変をも視野に入れなければならなかった。
(未完)

<作図:高橋亜希子>

<参考文献>
・野口武彦「幕府歩兵隊―幕府を駆けぬけた兵士集団」(中公新書、2002)
・野口武彦「長州戦争―幕府瓦解への岐路」(中公新書、2006)
・家近良樹「江戸幕府崩壊 孝明天皇と『一会桑』」(講談社学術文庫、2014)
・家近良樹「幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白」(中公叢書、2007)
・宮地正人「幕末維新変革史(上)」(岩波書店、2018)
・石井寬治「明治維新史―自力工業化の奇跡」(講談社学術文庫、2018)
・松原隆文「最後の将軍徳川慶喜の苦悩」(湘南社、2019)
・石井孝「明治維新の舞台裏 第2版」(岩波新書、1975)

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