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弁護士 堤 淳一

2022年03月04日

太平洋の覇権(35)-----幕府崩壊の翳り

(丸の内中央法律事務所報No.40, 2022.1.1)

長州藩による武器の調達

 □ 長州戦争において第一等の役割を果たしたのは何と言っても銃砲である。銃の優劣とその機動的用法が戦の帰趨を決めた。もし長州勢がライフル銃隊を組織していなかったとすれば、中途停戦等、諸般の事情から戦いは痛み分けに終わり、幕府軍は勝てはしなかったとしても、僅か3か月であっけなく負けに終わることはなかったであろう。
 しからば長州藩は銃砲をどのように調達したか。少し時を過去に遡ってこの事情に立ち入ってみることにする。

 □ かねて安政5(1858)年に締結された日英通商条約は、「軍用の諸物は、日本役所の外(ほか)へ売るべからず」とし、外国が日本に武器を輸出する先を幕府に限定した。武器の自由貿易を認めると、国内の反政府勢力が外国製の武器を輸入して、内乱をもたらしかねず、かくては正統政府である幕府転覆の原因ともなるからである。
 しかしそれにもかかわらず武器の密輸入を防ぐことはできなかった。文久3(1863)年10月、薩英戦争を終結させる条約を締結するとき、イギリスの軍艦の購入を斡旋することという条項が定められたことは前に触れた。軍艦にかぎらず、当時、薩摩藩とイギリス商人は活発に貿易を行い、気心を通じ合わせていた。
 薩英戦争におけるイギリス東洋艦隊司令長官は、イギリスの艦隊が鹿児島湾に集結して薩摩と臨戦態勢にあるというのに、イギリス商人は自らの利益のために日本人にあらゆる武器その他の軍需品を供給し、利敵行為を行っていることを苦々し気に本国の海軍省に報告しているという。

 □ このように薩英戦争開戦前から、イギリスから兵器を密輸入していた薩摩藩は、薩英戦争講和後にイギリスから兵器の輸入を活発化し、イギリスの有力な武器密輸出相手となっていったのである。

 □ ところで、予てより第2次長州戦争という内戦勃発の気運に注目していた日本駐在の外交官の動きは慶応の年に入ると慌ただしくなり、慶応元(1865)年5月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国代表は、「四国覚書」を締結した。
 これは来たるべき幕府と長州の戦争に際し四国は、
  1.厳正中立
  2.戦争に不干渉
  3.密貿易禁止
を相互に約し、日本に対する内政不干渉を申し合わせたものである。

 □ イギリスが長州藩に心を寄せていることは、他の三国にとって周知のことであり、四国共同覚書がうたった「厳正中立条項」(第一項)も「絶対不干渉条項」(第二項)も、日本の正統政府である幕府に敵対する長州藩をイギリスが支援しないよう三国が牽制した条項と言ってよい。
 幕長戦争で、イギリスが長州藩を軍事支援し、もし幕府が敗れて政府が転覆し、長州藩の天下になれば、対日貿易は長州藩を軍事支援したイギリスの独擅場となりかねない。かかる事態は他の三国にとって避けなければならない。安政の開国は各国に貿易の「機会均等」を保障したはずではなかったか。

 □ 慶応2(1866)年6月7日、幕府軍艦が周防大島郡を砲撃し、第2次長州戦争が始まって間もない同年8月25日、幕府は触書を発して長州藩に対する武器の内国貿易を禁止した。
 「毛利大膳父子叛逆につき、近国の面々え追討被仰付候につきては、武器その外、米穀等を始め、諸国(注:国内の諸藩)より長防の両国え輸入候儀相成らず」
というものである。密貿易相手として薩摩藩が意識されていたことは言うまでもない。

 □ ところで長州藩士桂小五郎は、予て文久3(1863)年5月の下関砲台から外国軍艦に対する砲撃事件(攘夷の暴発的実行)の以前からミニエー銃の購入に腐心していた。特に元治元(1864)年7月の禁門の変に際して、当時敵であった薩摩兵による銃撃によって手痛い目に遭わされて以来、長州藩は手持ちの銃装備では「大いに不利あるを知り、今日の機に乗じ兵勢を一変せん」として、軍の編成を銃中心に改革しようとしていた。
 そうした中、長州藩は土佐藩士坂本龍馬の仲介でグラバー商会から禁制品を購入した。伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)が暗躍し、慶応元(1866)年7月薩摩藩名義を以って銃器を購入したのである。
 同年8月26日、三田尻と下関に陸揚げされたのは、ミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺であった。価格はミニエー銃1挺につき、18両、ゲベール銃は1挺につき5両であった。

 □ 買い付けられた4300挺のミニエー銃はさっそく全藩規模で活用される。慶応元(1865)年4月、既に藩当局は士卒に対し「火縄銃・鎧兜を売り払って施条銃(ライフル)を年賦で購入すること」を命じていた。買いたての銃器はすぐ士卒に転売された。閏5月には歩兵塾が作られ、その第1期生には「小銃技芸より、小隊運動ならびに司令の法則を学ぶ」ことが課された。もはや奇兵隊のような志願兵だけではなく、在来の足軽隊も「施条銃隊」に再編成された。
 このような装備・編成が後に第2次長州戦争において幕府軍に対抗し絶大な効果をもたらしたことは前に述べた。

 □ さはさりながら、四国共同覚書による密貿易禁止、及び8月25日付の内国向け対長州武器輸出禁止令が、長州藩にとって死活問題となったことは言うまでもない。またそれはグラバーにとっても経営上由々しい問題であった。
 そこで、桂小五郎はグラバーと協議をする。グラバーは「下関では取引できないが、長州候の船で上海へ行って、そこで(小銃等を)買うなら差し支えない」と出貿易の策略を授け、その後慶応2年に薩長同盟が合意されると、通商条約第14条も四国共同覚書も無視し、反政府勢力である長州藩への武器密輸出を推進した。

グラバー商会

 □ グラバー(トーマス・B・グラバー 1838-1911)は18歳でスコットランドから上海に渡り、21歳の時に長崎へやってきたといわれ、ジャーデイン・マセソン商会で働き、その後独立してグラバー商会を設立、慶応元年には社員数15名を数える長崎で最大の外国商社となった。幕末において佐幕・討幕勢力のいずれにも武器弾薬を販売し、彼はある意味で明治維新の立役者である。明治政府は明治41年に外国人としては破格の勲二等旭日重光章を彼に授けている。

 □ ところで当時アメリカには建国以来未曾有の大変事が生じていた。南北戦争である。1861年、連邦側のサムター要塞を巡って発生した砲撃戦をきっかけに4年にわたって南北両軍の間に戦われた南北戦争は1865(慶応元)年4月9日、南軍がアポマトックスにおいて北軍のグラント将軍(後の合衆国大統領)に降伏し、事実上終結した。 
 南北戦争は4年にわたり両軍合わせて動員兵力420万人、戦死者62万人(北軍36万人、南軍26万人)という大戦争(数字には異説あり)であり、この間当時の国際的水準に照らし最も性能の高い小銃が大量に生産され、武器史上に画期的なインパクトを与えた。
 終戦により余剰となった最新鋭の小銃が、清国の上海あたりへ大量に出回ってきた。
 ヨーロッパやアメリカから多くの商人がやって来て上海を拠点にあらゆる商品を扱ったが、日本への小銃密輸出は危険だが高利益を生むビジネスであった。これを最も積極的に行ったのは、上海に強い商圏を確保していたイギリスであった。

坂本龍馬

 □ 上述の通りグラバーが如何に野心的であろうとも、外国人は開港都市である長崎において限られたビジネスを行い得るに留まる。ここに密貿易の禁制をおかし、海上輸送や貿易をビジネスとする新しいタイプの武士が登場した。土佐脱藩(郷土)浪士、坂本龍馬である。
 坂本龍馬は28歳の時土佐藩を脱藩し、九州、大坂を経て江戸へ出て、当時幕府軍艦奉行並であった勝海舟のもとへ入門し、勝の口利きで幕府の大久保一翁や、越前藩の松平春嶽の面識を得る。余程魅力的な人物であったのであろう。
 幕府が勝海舟の提案で文久3(1863)年に神戸海軍操練所を開設すると、坂本龍馬はその塾頭となり、土佐をはじめ諸藩の浪士を集めた。ところが、神戸海軍操練所はやがて土佐勤王党や、禁門の変の後長州の武士の蝟集するところとなり、当局の危険視するところとなり、廃止されるに至った。龍馬たちは今度は薩摩藩家老小松帯刀や西郷隆盛の知遇を得て慶応元年4月、鹿児島へ渡った。坂本とその仲間たちは、この年の5月、長崎の亀山を拠点に亀山社中を結成し、薩摩藩から給与を受け、薩摩藩が長崎で購入した汽船の回漕業者となった。

 □ さらに翌閏5月、坂本龍馬は下関へ渡って長州藩の桂小五郎と会見し、亀山社中が長崎や京都その他各地で仕入れた諸藩、諸外国の政治経済の情報を披瀝するなどして自分を売り込み、薩摩藩と長州藩の提携話を、折にふれ持ち出した。
 龍馬はグラバー商会から薩摩名義でする銃の「買付」に向けて動き、6月24日に長州藩から要請のあった武器の輸入について西郷と会見し、薩摩藩名義で銃を購入することを合意した。こうして同年8月26日に長州藩がミニエー銃を入手できたことについては先述した。

三角貿易

 □ 先に薩摩藩経由でグラバー商会から銃の密売を受けたといっても、これが継続的取引に発展する見通しが立っていたわけではない。長州に対する銃の貿易制限令により、対長州の密貿易を取り締まる幕府警察(長崎奉行所等)の目も厳しくなったという事情のほか、何よりも長州藩に十分な金があるわけではない。他方薩摩藩は軍隊の増強のため農民を兵士や輜(し)重(ちよう)に徴用したため農業労働力が不足し、慢性的な米不足に悩んでいた。
 そこで、ここに注目し、銃はグラバー商会から薩摩藩名義で買い受けて、幕府警察の眼を晦(くら)ますと同時に、長州藩からは薩摩藩に米塩その他の物産を供給して銃の代金の代物弁済とし、グラバー商会には薩摩藩から銃の代金を支払う「三角貿易」のビジネスモデルが出来た。
 こうして長州藩が薩摩藩名義で密輸入した銃火器類は、薩摩藩の船や、長州藩が薩摩藩から購入した船で長州藩領内へ搬入された(【第1図】三角貿易参照)

【第1図】三角貿易




薩長の盟約

 □ 文久4(1864)年8月に勃発した禁門の変(蛤御門の変)において薩摩藩は会津藩と組んで長州藩と戦い、長州側は両藩を「薩賊会奸」と罵った。しかし薩摩藩は終始一会桑勢力と心を一にしてきたわけではなく、薩摩は西郷隆盛の周旋で、長州藩三家老の切腹と引き換えに和議の成立に尽力した。第二次長州戦争開戦前、長州処分寛典論をとるようになっていた薩摩藩は、大久保一蔵が征長の勅許に反対する論陣を張ったことは前号に書いた。

 □ 元治元(1864)年9月22日、将軍家茂が参内して征長の勅許を得、翌23日に大坂へ進発したが、西郷隆盛は、将軍の進発を一会桑の働きかけの結果と受け止めていた。即ち、現在の朝廷は一会桑の三者によって締付けられている。三者が朝廷に対して長州戦争を強請したため、事理の是非は全く糺されず、勅許がなされた。かくては正論を述べる手段がなく、一会桑及び板倉老中、小笠原老中の横車によって長州再討に落ち着いた、このようなことを西郷は縁者への書簡で述べているという。

 □ 京都政局において一会桑と朝廷の融合体制が形成され、諸藩の関与・介入が封ぜられてみると、就中はじき出された格好になった薩摩藩は、国内政治勢力の一角に地歩を占めるためには政局の再編成を志し、新たな方策を求める必要が出てきた。

 □ 元治2(1865)年2月以来、薩摩藩士有志は長州藩士や民間人(豪商)と密かに薩長和解について談合を持ったが、禁門の変における軍事衝突のしこりは深刻であり、「薩賊会奸」として非難を浴びせた感情は容易に氷解するものではなかった。

 □ しかし第二次長州戦争が間近になるに従い、かつ慶応2年8月に長州を視野に入れた武器調達の禁令が発せられるに及んで、旧来の恩讐にかまってばかりはいられない。下世話に言う「背に腹はかえられない」のである。
 慶応2(1866)年1月21日、坂本龍馬の仲介も与って、京都薩摩藩邸において西郷隆盛と桂小五郎との間に盟約が成立した(本紙前号39号には3月7日と表記したがこれは陽暦表示)。薩長同盟は6カ条から成り、要約すれば次の通りであった。

  ①幕府と長州藩が開戦した時には、薩摩藩はすぐさま2,000の兵を出して在京の兵と合して京坂を守る。
②長州藩が勝った場合、
③負けた場合、
④開戦しなかった場合のいずれも薩摩藩は必ず朝廷に周旋する。
⑤薩摩藩率兵上京の上、一会桑の朝廷私物化が改まらない場合は武力で決着をつける、
⑥今後薩長両藩は堅く結束して皇威回復のために一致協力する。

   2月9日、長州藩当局は、
「その期に至り候へばまたぞろ軍勢四境に迫り候は必然の事につき、かねがね御手組仰せ付け置き候通り、諸手規律を相守り、御指揮に随ひ武威を堕とさず、孰れも一致、義勇決戦の覚悟これあるべし」
と布告して藩内を引き締めた。
 慶応元(1865)年歳末に、長州藩に対する第1次長州戦争のあと処理をどうするかが幕閣で諮られ、慶応2(1866)年2月に問責使(家老小笠原長行(ながみち))が下坂した頃、裏ではかかる盟約が成立していたのである。

 □ 薩長盟約と言われる出来事を証する文書は、桂が薩摩から提示を受けた内容を確認するため、坂本に送ったこの手紙が唯一のもので、従来、この文書が薩長両藩が「幕府」を相手に戦うことを想定した、つまり「武力倒幕」を確認しあったことの証左であると解されてきたが、そうは読めないと解する説がある(家近「江戸幕府崩壊」―孝明天皇と「一会桑」後掲参考資料参照)。
桂書簡には、
 兵士をも上国のうへ、橋会桑等も只今のごとき次第にて、もつたいなくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み、周旋尽力の道をあひ遮り候ときは、つひに決戦におよび候外これ無しとの事 (傍点家近氏)。
とあり、この記述を素直に読めば、この段階で薩長が戦う相手に想定されているのは一会桑の三者等であって幕府本体ではない。

 □ ここには、一会桑らが薩摩藩の朝廷に対する周旋をさえぎるときは戦う、と記されているが、長州藩の復権を薩摩側が手伝うということを言うにとどまり、これが武力倒幕をめざす攻守同盟を証するものではない。しかし、同時に、場合によっては、一会桑三者らと決戦となる覚悟を薩摩側が桂に伝えたものである、とされる(同書158頁)。
 私も素人ながら、家近説に近い感想を抱いており、確かにこの時点で、薩長は共同して一会桑が主導して侵入する軍勢を跳ね返すことが約され、長州による武器調達への協力も確かに行われた。しかし薩長両藩が倒幕に自信を持ったのは第二次長州戦争に圧勝してからのことであり(それでもなお武力討幕に踏み切るは"おっかなびっくり"ではなかったろうか)、この「桂書簡」を以って倒幕が同盟された証明とすることは無理ではなかろうか。

【第2図】薩摩藩士

  撮影者:フェリーチェ・ベアト(イギリス)
撮影年:慶応4年頃
画 像:鶏卵紙に手彩色(203×254mm)
十人ほどの群像写真の一部
軍服姿の下士官らしき人物を抜き出した。軍服はイギリスからの輸入品であろうか。



戦争のインフラ

 □ 戦争をするには巨額の費用(戦費)がかかる。以下において幕府と長州・薩摩の経済力・戦費の調達その他戦争の大義名分等、戦争の基盤と言った要素について触れてみる。

 □ 幕府の場合
 幕府の天領からの経常収入(年貢米)は、知行地のない蔵米取の幕臣への給与や役職手当・大奥経費など経常支出にあてられたが、幕末期における臨時戦費の多くは、貨幣改鋳益からまかなわれているようである。
 しかし貨幣改鋳益は文久3(1863)年頃がピークで以後、漸減し、以後は大阪商人への巨富の献納を命ずるなど四苦八苦したことは以前に書いた。幕府は窮して慶応2(1866)年5月実施の生糸・蚕種改印令を発し、産地において手広く生産者に課税しようと企図したものであるが、農民の反対に遭って頓挫した。また幕府は幕末の8年間に開港した三港(横浜、箱館、長崎)からの関税収入(海関税)も軍費に充てられたと思われる。

 □ フランスのレオン・ロッシュ公使(文久3年赴任)は、殆ど内政干渉とも言える露骨な助言を幕府に対して行った人物であるが、陸海軍建設費にあてる収入として、家屋・宅地税、商人税、船税、酒・煙草に課する消費税や産地で茶・生糸に課する税をあげ、土地から上がる米に対する課税(現物地代)の外に商人税や消費税を課することを進言した。しかしその勧告は実現しないまま幕府が消滅してしまい、幕府はこの画期的な経済発展の成果を十分吸収し得なかった(こうした制度は明治政府によって実現された)。

 □ 長州藩の場合

   長州藩の多額の軍事支出を支えた中心をなすのは、全国的にみて突出する高率な米納年貢課税率にあった。明治6(1873)年の地租改正直前の田畑生産量に対する貢租比率は、全国平均で26.7%であるが、このころになっても山口県のそれは36.7%と断然高いといわれている。
 そうした財源をもとに、長州藩は、慶応元年には薩摩藩名義で大量の小銃を購入しており、その代価はミニエー銃7万7400両(1挺18両)、ゲベール銃1万5000両(1挺5両)、合計9万2400両にのぼった。また、奇兵隊などの諸隊の兵士は、一種の傭兵であるから給料が支払われ、小銃なども藩から支給されたものもあったから、藩財政に及ぼす負担は極めて過重であった。

【第3図】征長軍の原藩籍