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弁護士 堤 淳一

2022年10月27日

太平洋の覇権(36)-----大政奉還

(丸の内中央法律事務所報No.41, 2022.8.1)



 徳川慶喜の将軍襲位

 □ 慶応2(1866)年12月5日、徳川慶喜は京都二条城において征夷大将軍に任ぜられた。
 手続的にはまず、正二位・権大納言(ごんのだいなごん)に叙任され、次いで征夷大将軍・源氏長者(げんじのちようじや)・奨学淳和両院別当(しようがくじゆんなりよういんのべつとう)・右近衛(うこんえの)大将・右馬寮御監(うめりようのぎよかん)を兼ねる宣旨を拝受したという段取りであり、過ぐる11月27日、孝明天皇は議奏飛鳥井雅典・伝奏野宮定功両中納言を常御所に召され、要旨「久しいあいだ将軍闕職(けつしよく)ではないかと気がかりなので、徳川中納言に宣下したいと思う。たとえ固辞するとも、このたびは是非お請けするようにとの内意を伝宣せよ」との仰せがあった。
 翌28日、その内意が所司代松平定敬を通じて伝えられたとき、慶喜は叡慮の忝(かたじけな)さに感泣した、と伝えられている。感泣したかはともかく、安堵したことに相違はあるまい。

 □ 慶喜は前将軍家茂が第二次長州戦のさなかに逝去し(慶応2年7月20日)、将軍の後任が取り沙汰されたとき、徳川家の家督のみを相続し(8月20日)、将軍位については仲々襲職を肯んじなかったことは、本誌39号に述べた通りである。しかし慶喜は「長州大打込」を壮語した舌の根の乾かぬうちに、九州戦線の一角(小倉口)が崩壊するや出陣をとりやめる等、世間を唖然とさせる行動に走ったため、これまで自分を支えてくれた孝明天皇の不興を買い、一会桑政権の支持を失うなどの事態に陥っていた。他方において薩摩藩の大久保一蔵らがこの機に乗じ兵庫開港をめぐって幕府を苦境に追い込もうと策動するなど、将軍位が空位であること自体が政局を形作り始めていた。徳川宗家のみに限って相続したことがウラ目に出たかと、慶喜の胸中穏やかならざるものがあったであろう。

 □ 将軍位を空位のままにしておくことは済まされない。
 9月7日、天皇は、有力24藩に国事を議するため上京あるべしとの命を下した。上京した諸藩は、加賀、備前、松江などの諸藩にとどまったが、会津、桑名、土佐、熊本ら9藩は文書を以って慶喜の将軍就任に賛同し、或いは慶喜への宣下を積極的に求めるなどした。幕閣にあっては老中板倉勝静や慶喜の謀臣原市之進らが、公家、諸侯に慶喜支持の遊説をしてまわった。こうした形だけとは言え、諸侯公家への意見聴取という根回しを経て将軍宣下に至るのである。長州征討の不始末があったにもかかわらず、天皇の慶喜に対する信頼は未だ篤いことが天下に証明された。

 四国使臣の謁見

 □ 将軍襲位にあたり慶喜にとって最も重要な外交課題は英仏蘭米の四国公使との謁見であった。慶喜はこの旨を天皇に奏上し、四国公使に招待状を出したのは慶応2年12月2日、慶喜の将軍宣下の日取りが内定したのはその前日の12月1日である。同月5日に将軍宣下があったのであるから、慶喜がこの外国使臣謁見を機に外国と交渉する権限が自分にあり、幕府こそが日本を代表する機関であることを内外に示そうとして、いかに逸(はや)っていたかを理解することができる。
 一方、招待された四国の代表は12月7日に謁見問題について会合を持った。席上、兵庫開港を迫って幕府を困らせようと主張するパークスはロッシュと激論となったが、結局はロッシュに説得されて一同は招待に応ずることになった。

 □ しかし、新将軍謁見の際には四国代表達が兵庫開港を要求するらしいと知ってあわてた幕府は、12月25日に孝明天皇が急逝したのを理由に、慶応3年1月10日(1867年2月14日)、謁見の期日を一時延期すると四国代表に通告した。
 ところで、慶喜はまだ将軍になる前の慶応2年8月、ロッシュに手紙を送り征長休戦が成ったことを報じ、軍事教官等の派遣を既に依頼していたが、同年11月、外国奉行をして一度大坂城で会見したい旨の希望を伝えたところ、ロッシュは幕府刷新の必要性を述べる手紙を奉行に託すなどして会見を応諾した。軍事教官の来日は慶応2年12月8日に実現した。フランス政府の動きは可成り素速かったといえよう。

 □ 将軍襲位後の慶応3年2月6日と7日の両日、ロッシュは約束に従って大坂に赴き、大坂城内で密かに将軍慶喜と単独会見をした。このときロッシュは、外国との間に通商関係に入った今日、制度を抜本的に改めることを勧め、①海陸軍を拡充すること、②老中・若年寄の事務を海軍・陸軍・外国事務・会計・国内事務・曲直裁断(司法)の6局に分かち、従前は機能分担がなされていなかった老中の組織を内閣cabinetのように再組織すること、③そのための人材登用を勧め、④同時に薩長2藩が英国公使パークスと手を結び、幕府の勢力を殺ごうとしているので、条約の期限通りに兵庫を開いて両藩の陰謀とパークスの野望を挫き、幕府が名実ともに日本政府であることを内外に示すことが得策であると力説した。
 幕府は上記の通りロッシュが慶喜との間に単独会見したことに気を揉んだパークスが兵庫開港の実現を迫ってくると予測し、謁見式を早める判断を下した。

 □ 内謁見が3月25日にイギリス(パークス公使)、26日にオランダ(ボルスブルグ総領事)、27日にフランス(ロッシュ公使)の順に大坂城で行われた。正式謁見は3月28日に英・仏・蘭の順に別々に行われた。遅れて到着したアメリカ弁理大使の内謁見と正式謁見が4月1日に行われた。

 □ 慶喜の謁見は大成功であった。慶喜の容姿、弁舌、マナー等が四国の外交官たちを感動させた。慶喜は正式謁見の席上、パークスに対し、慶応3(1868)年12月7日をもって兵庫を開港する決意を述べてパークスを感激させた。このことは謁見の席で他の3国代表にも伝えられた。
 しかし、慶喜が単独で開港を約束したことはすぐに国内に大波紋を引き起こす。

 □ パークスが慶喜に好感を抱き、慶喜に接近しようとする姿勢を見せたことは、小松・西郷・大久保ら在京の薩摩藩士たちを慌てさせた。かれらは、開港には勅許が必要であるところ、天皇は勅許なしに開港を許すわけはないから、幕府は絶対に兵庫開港を外国側に言明できるはずがない、と踏んでいたのである。とすれば、パークスは幕府に対し条約の履行を迫って、朝廷に対し直接条約締結と開港を迫るに違いなく、幕府は絶体絶命の窮地に追い詰められる。それが薩摩藩士たちの狙いであった。
 しかし慶喜が兵庫開港を外国側に言明した以上、薩摩側は兵庫開港を阻止することにすべてを賭けるしかない。慶喜は絶対に兵庫開港の勅許を朝廷から引き出すしかない。両者はのっぴきならない対決を迎えたのである。

 孝明天皇の薨去と朝廷人事

 □ 既述の通り孝明天皇は慶応2(1866)年12月25日、36歳で薨(こう)去(きよ)し、睦仁新天皇が1月9日に満14歳で践(せん)祚(そ)した。幼帝につき摂政が置かれ、二条斉敬が就任した。天皇の外祖父は親長州派で禁門の変後、出仕並びに他人面会を禁じられた中山忠能(ただやす)であった。そうだからというわけではなかろうが、慶応3年1月以降、有栖川幟仁(たかひと)親王、九条尚良、有栖川熾仁(たるひと)親王、中山忠能、3月には山階宮晃・正親町三条実愛・中御門経之・大原重徳、和宮降嫁に協力したとして処罰されていた岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直(ひろなお)の4名が許され、5月にはそれぞれ入京を許可された。正親町三条実愛は、議奏に再任された。新天皇の践祚により人事が親長州人事に傾くのは自然の流れであったろう。

 □ こうした朝廷内人事は慶喜にとって望ましいとは言えなかったが、兵庫開港問題について言えば、徹底した攘夷論者で些かの妥協も許さなかった天皇の軛(くびき)から免れ得たことをも意味した。

 兵庫開港問題

 □ さきに慶応元(1885)年9月16日、英仏蘭米の四国連合艦隊が兵庫沖に来港し、軍艦の示威のもと、兵庫問題が厳しい外交問題となっていた経緯については本誌38号にやや詳しく述べた。
 安政5(1858)年の日米修好条約によれば、兵庫の開港と大坂の開市は、もともと文久2(1862)年に行われるべきものとされていた。しかし幕府は文久元(1861)年12月に外国奉行の竹内保徳を正使とする使節団(文久遣欧使節)を派遣して、開港期限を5年間延長し、西暦1868年1月1日(和暦では慶応3年12月7日)とする覚書(ロンドン覚書)をイギリスとの間に締結した(文久2(1862)年5月9日調印

 □ それを慶応元年11月15日に繰り上げるようイギリスのパークスが横車的に要求し、一時は四国間が不穏になったところ、フランス公使ロッシュのとりなしで、とにかく日本側がロンドン条約の約定通り開港を確約することを以って収束した。
 このような経緯を受けて、愈々慶応3年12月7日の期限が迫ってきた。これがここにいう兵庫問題である。

 慶喜の勝利

 □ 慶応3(1867)年3月5日、慶喜は兵庫開港の勅許を奏請した。朝議では反対論が強く、同月19日諸藩にアンケートをとるべし、との回答が慶喜に与えられた。慶喜は22日、勅許を再度奏請し、24日、朝廷は25藩に開港の可否を諮詢し、4月中に各藩より意見書を提出せしむべしと下命した。
 しかし、卓越した宮廷政治家でもあった慶喜は大多数の大名から開港を是認する意見をとりつけたが、薩摩の島津久光、越前の松平春嶽、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城の四藩主は上京のうえ意見を上申すべしと述べて態度を保留した。

 □ 第二次長州戦争は、征長軍の撤退は済んだものの戦後処理は未だ終えておらず、長州は朝敵のままであった。薩摩の西郷や大久保らは兵庫開港を機に長州を復権させ、長州を含む諸侯会議を政策決定の場とすべきであるとして四侯を説得にかかった。他方5月14日に四侯と会見した慶喜は、次いで19日、容堂を除く三侯と会見し、兵庫開港が先決問題、長州処置はその後のことと主張し、結局、奏請の際には2つの議題をともに提出することで事態を収拾した

 □ 慶喜は慶応3(1867)年5月23日、老中や京都所司代等を従えて御所へ入り、朝廷側からは、摂政、左大臣、右大臣、前関白、大納言らが出席し、夜8時から会議が始まった。この席で慶喜は、「長州藩へは寛大な処置を行いたい。同時に兵庫開港を勅許されたい」と奏請した。会議は翌朝まで徹夜で続いたが、結局、結論は出ず、翌5月24日には総参内となって公家たちが続々と詰めかけた。一同、御所の虎ノ間という一室に籠もり、ほとんど休憩を取らないぶっ通しの会議となった。慶喜は、熱弁を振るって会議をリードし、決断力のない摂政や反対する公家たちを説き伏せることに成功した。開会以来一昼夜を経た5月24日夜8時頃、ついに慶喜は「兵庫開港の勅許」を獲得した。

 □ 幕府は6月6日付を以て、「慶応3(1868)年12月7日から兵庫港を開港し、江戸・大坂両市に外国人の居留を許す」と布告した。
 また同時に慶喜は、二つ目の議題である「長州藩への寛大な処分」(但し、具体的内容には言及されず)についても勅許を得た。この勅許によって長州藩は朝敵ではなくなり、幕府は征長戦を続ける必要がなくなった。

 □ この対長州寛典は戦に敗れた側の幕府が、勝者の長州を許すという逆の扱いであり、一見奇妙である。しかしこの順逆転倒現象は後述のように、慶喜が整備しつつあった幕府陸軍の存在感がもたらしたものであると言ってよい。幕府の軍事力はこの時点では圧倒的に他の勢力を引き離していたのである。  

 諸制度の改革

 □ 本誌35号に既述したが、慶喜はかねて家茂将軍の後見職に就任した(文久2年7月)直後に大評定を行い、官制並に軍制の改革を評議し、それなりの成果を上げたが(文久の改革)、此度は将軍襲位の直前から直後にかけて諸改革を行ったのである(慶応の改革)。
1.官制の改革

 (1)  慶喜は、将軍襲位に先立って、慶応2年9月2日、将軍後見職の立場からではあるが、「仁を以て政事の目的と為し、諸民を愛憐すべき事。」を第1条に掲げ、以下人材の登用、賞罰の厳正、虚飾の廃止、冗費の節約、軍備の充実、信義にもとづく外交、貨幣の品質保持等の訓令を老中に達した。
 (2)  積極的な人材登用が行われた。
・それまで大名(万石以上)でなければなれなかった若年寄に、旗本(万石以下)からも任命できるようにした。慶応3(1867)年、旗本で大目付永井尚志(なおゆき)を若年寄格に抜擢し、旗本の外国奉行平山敬忠(よしただ)及び、陸軍奉行浅野氏祐を若年寄並に昇進させた。
・元水戸藩士で一橋家附用人原市之進と梅沢弥太郎を目付に特任した(原は将軍の知恵袋として活躍したが後に山岡鉄舟らにより暗殺。慶喜の政治運営に甚大な不利益を与える)
 (3)  幕府支援の姿勢を固めていた仏国駐日公使のロッシュの助言のもと、老中制度を改革し、各自が責任を分担する制度に改めた。慶応2(1866)年12月には陸軍総裁と海軍総裁を、慶応3年5月には国内事務総裁と会計総裁を、6月には外国事務総裁を設け、職務権限を明確にして老中に分担させ(首相格として慶喜を補佐しつづける老中板倉勝静のみには、政務を総理せしめることとし、事務分担の枠外に置いた。)、かつ、この6月には老中の月番制を廃止した。
 (4)  土地から上がる租税の外、不動産税、消費税の創設を模索した(本誌40号参照)。
2.軍制の改革
 慶喜の最重点課題は軍備の充実であった。
 (1)  予ねて幕府は文久の改革において幕府歩兵を創設し(文久2年)これを基幹とする陸軍部隊を発足させ(その人数は6300人に達する予定であったが目標には達しなかった)、海軍については、安政2(1855)年、長崎に海軍伝習所を設置して以来、英米、蘭等から蒸気式軍艦を購入して整備充実をはかり、その数は慶応2年までには34隻と、第2位の薩摩藩(17隻)を大きく引き離している。しかして慶喜は第2次長州戦争において、銃隊の劣勢から完敗したことに対する反省から、陸軍力の強化を求めた。
 (2)  慶安軍令(遙かに遠い第3代徳川家光将軍の時代)によれば3千石クラスの旗本の軍役義務は、「動員人数56人(雨具持ちや草履取りなどを含む)とし、うち銃手3人」とされたが、これを慶応2年には、3千石の旗本は、「動員人数は34人で全員銃手」と改正した。動員人数は39%削減であるが、銃手を比べると11倍への増加である。
 (3)  また従来からの、旗本が個別的に軍役を勤める制度を廃し、旗本数家分あるいは数十家分を組み合わせて一隊にまとめ、統一的な常備軍へと再編成をはかった。
 さらに大番組(先鋒戦闘部隊)、書院番組(将軍親衛隊)、新番組を廃止し、旗本全員に小銃を持たせて銃隊となした。
 (4)  しかし、徴募された兵の資質はバラバラで(体格や行軍能力も劣り、かつ不揃いであった)、統一を期待しうべくもなかった。複数の旗本家の組み合わせ策も、各家の反目もあったりして統一した指揮系統を形成できなかった。そこで「旗本が禄高に応じて知行地の農民を徴発し、その農民兵への給金は当該旗本が支払う」とする従来の制度を改め、「旗本は禄高に応じて兵の給与相当額を幕府へ向こう10箇年間上納し、その納金で幕府が庶民兵(傭兵)を雇う」こととした(慶応3(1867)年9月)。そして、従前徴発した兵の多くは解雇したのであるが、これらの者は遊民化し、社会不安を引き起こし、この問題の解決は明治時代へと持ち越された。
 フランス人軍事教官

 □ ともかく慶喜の常備軍構想は進み、ロッシュの勧めで来日したフランス人教官による軍隊訓練は効果を上げつつあった。当時、フランスはナポレオン三世の時代であり、ナポレオン一世の時代ほどではなかったにせよ、それでもなお保有する陸軍は優秀であった。
 慶応2年12月8日(徳川慶喜が将軍宣下を受けて3日目、軍事教官の派遣を依頼した8月から4箇月後のことであった)に来日した軍事教官はシャノワーヌ(大尉)、ブリュネー(大尉)以下19名であり、横浜(神奈川奉行支配定番役のあった場所。現在の横浜市中区)に設けられた伝習所において、歩・騎・砲三兵の教育が開始された(後に江戸大手前屯所に移転)。

 □ 余談ながら、シャノワーヌとブリュネーは他の有志と共に戊辰戦争に参加し、箱館でも戦った。その後、仏軍隊を脱走して帰国したため軍籍を剥奪されたが、普仏戦争の勃発により軍籍を回復して累進を重ね、後に前者は陸軍大将及び陸軍大臣を、後者は陸軍参謀長を歴任している。フランスは第一級の士官を派遣してきたのである。

 薩長ら急進派による討幕の盟約

 □ 兵庫開港と長州藩寛典の問題を同時に朝廷から獲得したことは、徳川慶喜が孝明天皇没後の朝廷の主導権の掌握に成功したことを物語っている。事態を成り行きに任せれば、幕府が旧来の体制を維持したまま大手を振って開国を推進する可能性が高まった。幕府は兵庫港の貿易を管理・独占することにより財政を大いに潤すことができるであろう。国内の治安が乱れれば貿易は沈滞することは明らかであるから、国際世論は内乱に反対するであろう。さすれば、国際世論は内乱の抑止力として機能しうる。このように考えると慶喜としては、兵庫開港は徳川による政権維持にとって得がたい力を持つものとして考えらえた。

 □ 他方朝廷と幕府が兵庫開港について諸大名に諮問していたにもかかわらず、その返答がなされないうちに、朝廷に単独で兵庫開港の勅許を迫ったことを薩摩側は許せなかった。「大樹(=将軍)独り朝廷へ迫り奉り、朝廷の思し召しにもこれ無き開港を無理に勅許せり」との非難が、薩摩藩の有志の間に巻き起こる。
 在京薩摩藩指導者は、一気に態度を硬化させた。それにともなって、反幕派の公卿・諸藩士の幕府への対決姿勢も強まってきた。このまま推移するにあっては幕府の一人勝ちになってしまう。それを許すほど反幕急進派は迂闊ではない。

 □ 5月21日薩摩藩家老小松帯刀が、土佐藩の「在京有志に対し、「長州とともに事を急(せ)く必要あり」として相談があり、薩摩藩は小松、西郷・吉井(友実)、土佐藩は板垣退助、中岡慎太郎・谷守部(干城)などの急進派との間に武力討幕の私的盟約が交わされ、6月には、在京の薩摩藩リーダーたちから、国元へ出兵が要請され、また長州藩に対しても連合を打診したいとの申し入れがなされた。

 打開策としての「船中八策」

 □ 他方において、このころ、上京していた土佐藩の後藤象二郎が、事態の急展開に驚き、同藩の京都詰重役に、武力討幕に代わる新たな状況打開策を開陳する。
 この策は、慶応3(1867)年6月15日に坂本龍馬から後藤に手渡され、後に「船中八策」と呼ばれることになる国政改革プランであり、それは、大政奉還を将軍に働きかけ、それが実現をみたあと、公議政体(議事院)の設立を図るという主旨のものであった。

 □ 後藤及び在京土佐藩重臣は、まず、前宇和島藩主の伊達宗城に、次いで、薩摩藩側に計画を打ち明け、「政権の平和的委譲」を軸として、小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵らを精力的に説得して廻り、6月22日、京都三本木の料理茶屋吉田屋で漸く「薩土盟約」に漕ぎつけた(宗城は脱落)。薩摩藩からは右の3名、土佐藩からは後藤・福岡藤次(のちの孝弟(たかちか))・寺村左膳、真辺栄三郎らが出席し、坂本龍馬と中岡慎太郎も立ち会った。

 □ つまり西郷たちは、土佐藩急進派と、5月21日に討幕挙兵の盟約を結び、いままた同じ土佐藩の大政奉還派とも盟約を結んだわけである(もっとも薩土盟約には、将軍に大政奉還を建白しても採用されないことは確実だから、それを理由に挙兵したらどうかという含みも持たせてあった)。後藤はさっそく7月には土佐へ帰って、山内容堂の説得に成功した。「船中八策」は前土佐藩主山内容堂の「大政奉還に関する建白書」となって、10月3日、後藤と福岡から幕府老中板倉勝静に上呈された。

 薩州、長州、芸州の盟約

 □ ところで慶応2(1866)年に薩長同盟が締結されると(本誌40号参照)、その後長州藩は隣接する芸州藩(広島)に働きかけ、慶応3年9月20日、薩摩、長州、芸州の3藩間に武力討幕の盟約を結んだ。京都において、大久保、西郷、品川弥次郎(薩摩)、広沢真臣(長州)、辻将曹(芸州=広島)によって結ばれた。同じ年の6月には上述の通り薩土盟約が成立しているが、その裏で討幕派勢力のめまぐるしい動きがあったのである。かような動きは各グループの虚実の駆け引きというより当事者が生死を賭けた動き(失敗すれば滅せられる)の中で互いに保険をかけた動きであろう。
 広島藩は土佐藩が10月3日慶喜に大政奉還を勧告すると同月6日にこれに同調して勧告に与し、後に薩長閥から日和見と言われることになる。
藩論を挙げての討幕か

 □ 上述した如く慶応3(1866)年5月以降、幕府に対する強硬論が京都を中心に取り沙汰されてはいたが、この段階で薩長両藩が挙げて武力討幕を決断したかというと果たして如何なものであろうか。
 家近良樹『江戸幕府崩壊―孝明天皇と一会桑』(巻末参考文献)は「冷静に考えればそのような決断を下すにはあまりにもそれを阻止する要因があったと言わざるをえない」として概略次のように述べている(190頁以下)。

 □ まず、軍制改革の成績に対するロッシュの評価は低いものであったにもかかわらず、薩長両藩の急進派ですら、徳川慶喜による幕政改革に、実態とかなり乖離した高い評価を与えており、それが藩首脳部をして、幕府本体に対する攻撃をためらわせる要因となっていた。

 □ 次に、薩長両藩に限って言えば、王政復古を志向し、幕府に対し敵対する勢力が大分いたけれども、他の諸藩は到底そこまでのレベルに達しておらず、
「佐幕勤王藩」、もしくは幕府べったりの「佐幕藩」、あるいは「日和見藩」が圧倒的に多数であった。

 □ また、薩長両藩ですら、挙藩一致的に武力討伐を決断したことは一度もなかった。確かにこの段階を経て、両藩においては対幕強硬論が力をつけ、藩首脳の鼻面をとって引き廻すようになって行くが、挙兵討幕を藩の方針として決定したことは一度もなかった。けだし、両藩ともに財政が逼迫しており、もしそうしたことを藩の方針として決定しようとすれば、藩内が分裂して収拾がつかない事態となることが容易に予想されたからである。

 □ 慶応3年9月9日付で、フランス公使ロッシュが、本国の外相に宛てて出した報告書には「現在大多数の大名は大君(=将軍)の政策に同調しており、ただ薩長だけが敵対的であるが、薩摩は二派に分裂し、大計画を試みるには統一・安定を欠き、長州は、問題の平和的解決に希望をつないでおり」云々と記されていたと言う。

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 大政奉還  

 □ 慶応3年(1867)年10月12日、老中以下、在京の幕府諸役人が二条城に召集され、徳川慶喜から大政奉還の決意が表明された。そして翌10月13日、慶喜は在京諸藩10万石以上の大名の重臣を二条城二の丸御殿に召集した。
 40藩が応召し、京都所司代桑名藩主の松平定敬が「大政奉還上表文草稿」を示して説明した。大多数の藩は、国元に持ち帰るとして意見を留保して退出したが、土佐の後藤、薩摩の小松、広島の辻将曹、岡山の牧野権六郎、宇和島の都築荘蔵は残って慶喜に面謁、揃って大政奉還して然るべしと積極的意見を述べた。

 □ 翌14日、若年寄永井尚志が上表文を起草し、即日率兵して(慶喜自身は幕府歩兵を従えて二条城に控えた)、朝廷に大政奉還の上表を行った。
 上表文の要旨は、①外国との交流が益々盛んになる今日、朝権は一途に出なければならない、②それゆえ広く天下の公議を盡し聖断を仰いで同心協力すれば、必ず外国の諸国と並び立つことができる、とするものであり半年後に公布される五箇条の御誓文に生かされる。翌15日、彼の上表は勅許された。



大政奉還図.jpg
邨田丹陵画「大政奉還図」(1935年、聖徳記念絵画館蔵)

 
 朝廷の惑乱

 □ 突然の大政奉還により幕府は確かに公的には消滅したが、大政を奉還された側の朝廷は、現実に政治を行う体制を持っていなかった。したがって、将軍慶喜に対しては、「諸大名が参集して会同が行われるまでは、将軍の職務は従来の如く心得べし」という趣旨の沙汰書を10月26日に発し、さらに京都守護職の会津藩主松平容保には将軍慶喜から「追って相達するまでは、是までの通りに心得べし」という指令が出された。

 □ 奇妙ではあるが、このような朝廷側の動きは、或いは慶喜の読み筋であったかもしれない。

 討幕の密勅

 □ ところで慶喜が上表した10月14日の早朝、薩摩藩島津久光、茂久親子に対し、また同日長州藩毛利敬親・定広父子に対し、13日付けの討幕の密勅が発せられ、勅諚は「賊臣慶喜ヲ殄戮(てんりく)(=殺し尽くす)セヨ」、といい、また別に出された宣旨では、会津宰相(松平容保)と桑名中将(京都所司代松平定敬)の2人に「速カニ誅(ちゆう)戮(りく)(=罪に処して殺す)ヲ加エヨ」と命じていた。

 □ この「密勅」なるものは、薩長両藩の首脳が討幕強硬路線に向けて藩論を統一できないとみた大久保、西郷ら急進派が、世論を討幕に持ってゆくには、どうしても朝廷の力を借りる外ないと考えて、中山忠能従大納言、正親町三条実愛(権大納言)、中御門経之(権中納言)をして「密勅」が下るよう依頼し、偽勅させたのではないかとの疑いが今日ではもたれている代物である(上記3名の署名のみで摂政の名を欠き、署名者の花押もない。書き振りもかなり下品である)。

 薩長芸三藩の軍勢上洛

 □ 慶喜の大政奉還の上表によって幕府は公的には消滅したので「討幕の密勅」は肩透かしとなったわけで、当の密勅の署名人である3人から、薩長両藩に、その「密勅」の実行はしばらくこれを延期せよ、という沙汰書きが出された。しかし当時は密勅が偽勅であるかどうかが判っていたわけではないし、密勅撤回の通知が速やかに届いたかどうかも不確かである。仮に届いたとしても、密勅を欲する勢力の耳に入りはしない。

 □ 三条実愛が大久保利通に渡し、大久保から討幕の密勅を受け取った西郷隆盛は、薩摩藩兵3000人を率い、4隻の汽船に分乗して11月13日に鹿児島を出発し、京都を目指した。見送りに出た小松帯刀によれば、このときの西郷は、これまでの西郷とも、明治を迎えてからの西郷ともまったく異なる、別人のような狂気に彩られていたという。心中深く期するものがあったのであろう。
 中御門経之から広沢真臣の手を経て密勅を受け取った長州藩は、奇兵隊、遊撃隊など諸隊1200人が6隻の軍艦に分乗して11月25日に藩地を出発した。
安芸(広島)藩からは11月28日に藩兵300人が京都に入った。

 兵庫開港・大坂開市

 □ 慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)、兵庫運上所の広間で開港式が挙行された。会場には、英米仏伊蘭普(プロシア)6ヵ国の外交代表が出席し、日本側代表としては大坂町奉行兼兵庫奉行の柴田剛中が裃姿で音頭をとり、テーブルを挟んで双方祝杯を挙げた。正午を期して在泊していた6ヵ国の艦船から21発の祝砲が発せられた。
 大坂においては天保山砲台から開市を祝う祝砲が発せられた。

 □ この時期は既に大政が奉還されてほぼ2箇月を経ていたが、現実には「将軍の職務は従来の如く心得べし」という朝廷の沙汰書により、政務は従来通り幕府が執り行っていたのである。 

(未完)

<挿図作成>高橋亜希子

<参考文献>
・野口武彦『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』(中公新書、2002)
・野口武彦『長州戦争―幕府瓦解への岐路』(中公新書、2006)
・家近良樹『江戸幕府崩壊―孝明天皇と一会桑』(講談社学術文庫、2014)
・鈴木庄一『明治維新の正体―徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ』(毎日ワンズ、2019)
・宮地正人『幕末維新変革史(上)』(岩波書店、2018)
・石井寬治『明治維新史―自力工業化の奇跡』(講談社学術文庫、2018)
・松原隆文『最後の将軍徳川慶喜の苦悩』(湘南社、2019)
・石井孝『明治維新の舞台裏 第2版』(岩波新書、1975)
・綱淵謙錠『乱』(中央公論社、1997)
・神谷大介『幕末の海軍―明治維新への航路』(吉川弘文館、2018)

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