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弁護士 堤 淳一

2023年03月31日

太平洋の覇権(37)-----王政復古と鳥羽伏見の戦い

(丸の内中央法律事務所報No.42, 2023.1.1)

政権返上論

 □ 大政を朝廷に返上する考えは、徳川慶喜がこれを実現する以前に既に幕府の内外に唱えられていた。
 ペリー来航の直後に対米交渉にあたり、「無勅許調印」を推進する立場をとっていた目付職岩瀬忠震(ただなり)は、無勅許調印の政治的混乱を心配する下田奉行井上清直に対して、「この調印の為に不測の禍を惹起して、或いは徳川氏の安危に係はる程の大変に至る」とも、「国家の大政を預かる重職は、この場合に臨みては社稷を重しとするの決心あらざるべからず」(「幕末政治家」。鈴木「明治維新の正体」に引用)として、政権返上論の萌芽とも言うべき考えを披瀝している。

 □ 次に文久2(1862)年10月、大目付大久保一翁が幕閣における評議の席で、内外の情勢に鑑み徳川家だけで天下の政権を掌握することの困難性を説き、「天下の政権を朝廷へ返上し、徳川家も一諸侯に列するべき」旨を発言した。アヘン戦争による清国の敗北に伴うカルチャーショック、外国との交換レートの違いによる金貨の国外流出、軍の近代化により見込まれる軍事費の増加のほか、対外過激派によるテロ行為に対する諸外国への賠償金の支払い(ヒュースケン殺害事件(万延元年)、第一次東禅寺事件(文久元年)、第二次東禅寺事件(文久2年)、生麦事件(同年))等が幕府を苦しめて政権の前途に影を落としていたのである。

 □ 征夷大将軍とは、もとは8世紀末に外夷(当時蝦夷を想定)を討伐するため臨時に設けられた職であり、日本国を代表して外交交渉を行う定まった職掌を有するものとはされていなかった。幕末期における外国勢の到来に際会し、他に外交交渉を担当するにふさわしい機関はないこともあって、徳川幕府は外交交渉を事実上担当することになり、国際情勢に照らし現実的な開国の方針を採用した。

 □ しかし攘夷督促のため東下した勅使三条実美は「将軍は、征夷大将軍の職務である外夷討伐を忠実に実行し、攘夷を断行せよ」と迫ったのである。幕府はこれには困惑した。
 幕府が攘夷に不熱心なら、朝廷は職務怠慢を理由に征夷大将軍の官職を徳川幕府から剥奪するかもしれず、そうなれば幕府は国内統治についても合法性を失う結果となるからである。

 □ 大久保一翁は、そのような事態に陥る前に自発的に征夷大将軍職を返上してしまおうと考えたようで、政事総裁職だった松平春嶽も一翁の説に共感を示した。しかし将軍後見職だった一橋慶喜は、開国問題に決着をつけないまま、かつ政権返上後の新政治体制を確立しないままで政権を返上するのは無責任であるとして、一翁の政権返上論を採用せず、一翁を罷免(免職・差控)した。

 □ もし開国方針を採る幕府が、一翁の主張通り、「攘夷は不可能」とばかり、慌ただしく征夷大将軍職を投げ出せば、攘夷論者の毛利氏(長州藩)が代わりに征夷大将軍に任命され、攘夷戦争を起こすかもしれないからである。

公議政体論

 □ 慶喜は最終的には、坂本龍馬による「船中八策」をもとに山内容堂が献策した「公議政体案」に乗った形になるのであるが、この時期、国政改革プランに関する注目すべき研究がある。
 先に文久2(1862)年、福井藩士である横井小楠が「国是七条」なる国政改革プランを、また慶応3(1867)年5月に上田藩士赤松小三郎が「建白七策」とよばれるプランを策案している。

 □ 赤松小三郎は勝海舟の門下生であり、建白七策は前政事総裁松平春嶽に提出された「赤松小三郎国政改革意見書」と題するものである。
 意見書は朝廷と幕府が協力して朝廷に権限を集中することを基本として、朝廷に仕える6人の閣僚を置き、「亦(また)別に、議政局を立て、上下二局に分かち、其の下局は国の大小に応じて、諸国より数人づつ、入札(いれふだ)にて凡そ百三十人に命じ、常に其の三分の一は、都府に在らしめ、年限を定めて、勤めしむべし。その上局は、堂上方・諸侯・御旗本の内にて入札を以って人撰し、凡そ三十人に命じ、交代在都して勤めしむべし。」と二院制を提案するなど、かなり具体的である。

 □ 坂本龍馬の「船中八策」は慶応3(1867)年6月に策案されたとされ、大権を朝廷に返還し、国政の権力を朝廷に集中し、「上下議政局ヲ設ケ、議院ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ万機宜シク公議ニ決スベキ」と述べており、赤松の国政改革意見書と通ずるものがある。
 国政が動揺する中で、多分ほかにも各地の在野の有志の中に様々なプランが策案されていたであろう。これらが互いに影響し合い、混淆して結実した一つのプランが船中八策と言えそうである。

 □ ともあれ慶喜が「公議政体論」に興味を持ったことは明らかであり、「容堂の建白出ずるに及び、そのうちに上院・下院の制を設くべしとあるを見て、これはいかにも良き考えなり、上院に公卿・諸大名、下院に諸藩士を選補して、公論によりてことを行わば、王政復古の実を挙ぐるを得べしと思い、これに勇気と自信とを得て、ついにこれを断行するに至りたり」と維新後に述べている(「昔夢会筆記」。野口『鳥羽伏見の戦い』に引用)。

 □ また徳川慶喜に大きな影響を与えた人物に西(にし)周(あまね)がいる。西はもと津和野藩士であり、儒学の才幹を認められていたが、ペリー艦隊の来航に応じて、江戸出張を命ぜられ、江戸において洋学研鑽を志したが、志を変えて脱藩し、大久保一翁の推薦を得て、折柄幕府が海軍力増強のために派遣を決めたオランダ留学生(総勢16名)に採用され、文久3(1863)年4月16日にオランダに到着し、ライデン大学において法律、国際法、財政学、統計学を修めた。
 西は帰朝後、江戸において幕府開成所教授に採用されたが、慶喜の徳川宗家相続が布告されて一ヶ月後の慶応2年9月19日、呼び出しを受けて上洛し、待命8か月、慶応3年5月中旬、突然、慶喜から招かれ、以後そのブレーンとなって諮問に与った。 

 □ 慶応3(1867)年10月14日、慶喜は大権を朝廷に奉還する旨の上表を行ったことは既述したが(本誌41号)、その日の夜、慶喜は私的に西周を召して「国家三権の分別及び英吉利(イギリス)議院の制度」を講義させ、大政奉還後の新政治体制構想を自ら再確認した。翌日西周はこの講義録を「西洋官制略考」としてまとめ、さらに11月には慶喜のために、「議題草案」を起草した。
 「議案草案」の思想は、我国の新政治体制はイギリス議会主義を手本とし、皇室をイギリス王室に、大君をイギリス首相になぞらえたものであって、西周は慶喜に、新しい日本の政治体制はイギリス型とするよう薦めたと推測される。

慶喜の胸算用

 □ 徳川家は将軍を辞職し、政権を返上しても、依然として全国3000万石の石高のうち400万石を有する大大名である。慶喜はその400万石をバックに上院議長に選出され、天皇を戴いて国家首班をめざすという胸算用を立てていたのではなかろうか。

 □ 慶応3(1867)年10月14日、慶喜による大政奉還の上表は、翌15日に受理され、慶喜は10月24日征夷大将軍の辞表を提出したが、肝心の朝廷にその受け皿がない。よって摂政の二条斉敬は独断で受理できず、「諸藩上京の上、追って御沙汰あるべし。それまでのところ、これまでの通り相心得候よう御沙汰候事(「岩倉公実記」。野口『鳥羽伏見の戦い』に引用)と回答した。
 時間稼ぎをして徳川の実力を回復し、公論によって新体制を築き上げる構想を抱いていた慶喜にとっては好都合と言うべきであったろう。
 慶喜が12月19日に行われた王政復古のクーデターにより罷免されるまでは、幕府の官僚組織は従前通り機能した。神戸開港、大阪開市のセレモニーは幕府の役人によって行われたのはそのためである(このことは前号に書いた)。

諸侯会議

 □ ともあれこうして諸侯会議の開催が公式の政治日程に上がった。朝廷が諸国に大名に上京を命じた10月21日の当初の期日は、欠席者が多かったので、10月25日に重ねて命令を発した。期限は11月30日と定めていたが、11月に上京してきた諸侯は、全国266藩のうち16藩にとどまり、会議のスケジュールの見通しは立たなかった。16藩は以下の通りである。
 薩摩・芸州・尾張・越前・彦根・郡山・大聖寺(だいしょうじ)・膳所(ぜぜ)・竜野・尼ヶ崎・福知山・園部・水口(みなくち)・柏原・西大路・狭山

 □ 徳川家の内部も大混乱を来たしていた。京都において一会桑政権を担った会津・桑名両藩はもとより、紀州・津(藤堂)・大垣(戸田)など佐幕派諸藩は、憤激して薩摩藩邸への攻撃も辞せずと息巻き、幕閣はこれをなだめるのに一苦労した。10月17日には江戸城で評定があり、勘定奉行小栗忠(ただ)順(まさ)をはじめ芙蓉間詰の革新派官僚も大政奉還に強く反対した。
 老中格兼陸軍総裁松平乗謨(のりかた)、老中格兼海軍総裁稲葉正巳、大目付滝川具挙(ともたか)などは軍艦順動に乗って下坂した。

 □ 28日には、若年寄兼陸軍奉行石川総管(ふさかね)が歩・騎・砲の三兵を引率し、軍艦富士山に座乗して急遽駆け付ける。その全員が大政奉還に反対し、「上表を取り消して原状復帰を図れ」とばかり呼号する。憤激の余り、徒党を組んで各自の藩に無許可で西上する旗本たちも続出した。市中をパトロールする新撰組も殺気立ち、随所で薩長土の藩士と事を構えたりした。

クーデターによる「王政復古」

 □ 討幕派は最後の仕上げを急いだ。討幕勢力も幕府軍が急激に勢力を増す形勢の中で、徳川家に有利な形で諸侯会議が開かれるのを坐視してはいられない。この時機を逸すると事態は旧態勢へと落ち着いてしまう。
 幕府側の機先を制してクーデターへと動く。「勤王藩」と見込んだ長州・土佐・芸州・尾張四藩の重役に働きかけ、言葉巧みに倒幕計画へ誘い込む。

 □ 12月2日、大久保・西郷はキーマンである後藤象二郎をつかまえ、「王政復古をクーデター方式で決行する」と告げた上、計画の骨子まで打ち明けた。
 即ち、次のようである。①慶喜から提出されている征夷大将軍の辞表を勅許し、②朝廷にある二条摂政・賀陽宮(朝彦親王)ならびに伝奏・議奏職を廃止し、有栖川親王を大政を司る総裁とする。③「議定」という職を置く。④京都守護職・京都所司代なども解任し、蛤御門の警衛を免ずる。⑤幕府の采地を削減して、議事院の給費に当てる。⑥クーデター当日は、武装した土州・薩州・芸州・尾州・越前などの諸藩兵において皇居を警備する。

 □ 秘事は越前藩用人中根雪江から松平春嶽を経て慶喜に洩らされた。
 慶喜は「殊の外御驚きにて御顔色変ぜられ、今更致し方もなけれども、なお考え置くべし(『閑(かん)窓(そう)秉(へい)筆(ひつ)』)と沈痛な表情であったが、何の手も打とうとしなかった。
 慶喜の反応は不可解であり、二条城にいる幕府歩兵に出動待機を命じ、皇居警備の討幕派諸藩兵に待峙する措置を命ずべきであったと思われたが、それは後知恵と言うもので、春嶽の回想によると、後藤が持ってきた話には、朝政一新後は、関白・幕府・議奏・伝奏その他一切廃され、「慶喜公はやはり議定職に置かる」とあったというのである。それならばおとなしくしていた方が良い。

学問所における朝議

 □ 12月8日の夕刻から、摂政関白二条斉敬・左大臣九条道孝・右大臣・大炊御門家信(おおいみかどいえこと)・内大臣広幡忠礼(ひろはたただあや)・前関白鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)・前関白近衛忠煕(このえただひろ)をはじめ、国事御用掛、議奏、伝奏の全メンバーが列席して、御学問所で朝議が開かれた。議題は懸案の長州処分並にこれに伴う公卿の復権についてである。
 この朝議には、将軍徳川慶喜・京都守護職松平容保(会津藩)・京都所司代松平定敬(桑名藩)も召集されていたが、3人は、諸侯会議の開催まで慎重に振る舞うという方針で、病気と称して欠席し、意見を述べる機会を失った。慶喜がそのように仕組んだとも言われている。

 □ 朝議は紛糾して長引いたが、午後11時頃、①毛利父子の官位復活と入京許可、②三条実美はじめ「八・一八政変」で追放された五卿の官位復活・入京許可、③岩倉具視ら謹慎中の公卿の蟄居解除・還俗許可(岩倉は出家し蟄居していた)といった一連の重要事項を決定して閉会した。こうして徳川家に敵対する勢力はことごとく復権を認められた。

王政復古の大号令

 □ 明けて12月9日の午前10時頃、西郷吉之助が指揮する薩摩兵3千が軍鼓(ドラム)に歩調をととのえて御所北面の乾門から入場し、駆け付けた芸州藩兵(2千)、土佐藩兵(1個小隊)と共に御所の内外諸門を閉鎖し、名簿記載の者以外の通行を遮断した。それを待ちかねていたかのように、復権がかなったばかりの岩倉具視が衣冠に身を整え、王政復古令等の文案を入れた一函を捧げて参内した。
 筋書き通りその奏上を嘉納した明治天皇は、小御所に出御し、前もって参朝していた親王・公卿・諸臣を集めて、「王政復古の大号令」を発した。

 □ 王政復古の組織変革はまさに革命的だった。摂政・関白・征夷大将軍・議奏・伝奏・国事御用掛・京都守護職・同所司代などの旧官職を全廃し、臨時に総裁・議定・参与の「三職」を置くというのである。

 □ 新組織に擬せられた人々は次の通りである
総裁 有栖川宮熾仁(たるひと)親王
議定 仁和寺宮嘉彰(よしあき)親王・山階宮晃親王・中山忠能(ただやす)・正親町三条実愛・中御門経(つね)之(ゆき)・徳川慶勝(尾張)・松平慶永(春嶽)(越前)・浅野茂勲(もちこと)(安芸)・山内豊信(容堂)(土佐)・島津茂久(もちひさ)(薩摩)
参与 大原重徳(しげとみ)・万里小路博房(までのこうじひろふさ)・長谷信篤(ながたにのぶあつ)・岩倉具視・橋本実梁(さねやな)
その他参与として、尾・越・芸・土・薩の5藩から各2~3人が当日12月9日から12日までに追補されている。

 □ こうして二条関白(摂政)以下、公武合体派の公卿26名はすべて免職され(二条関白の後任の摂政は補任されていない)、参朝を停止され、公卿人事は討幕派一色となった。意外というべきか、予想通りと解すべきか、議定には徳川慶喜の名前はなかった。
 これで小御所会議の大勢は定まった。

小御所会議

 □ 間をおくことなく、その日の午後8時頃から、発足したばかりの三職による小御所会議が開かれた。
議題は徳川家処分である。
(なお会議の模様は以下のようであったとされるが、議事録はなく異説もある)。
 上中下三間に分かれる小御所の「上段の間」は、御(み)簾(す)によって隔てられ、中央に厚畳二枚を重ねた上に褥(しとね)を敷いて玉座とし、ここに明治天皇が臨席し、一段下の「中段の間」には総裁以下が着座した。
 玉座に向かって右(東側)には、熾仁・嘉彰・晃の三親王、中山・正親町三条・中御門・大原・万里小路・岩倉・長谷・橋本の順に居並び、向き合って、左(西側)には、慶勝・春嶽・茂勲・容堂・茂久の五大名が列座した。
 「下段の間」には、大久保一蔵・後藤象二郎・辻将曹など、参与になったばかりの五藩出身のメンバーが、閾(しきい)際まで詰めていた。
 西郷吉之助は裏で薩摩兵を指揮して警護を固めた。

「王政復古」島田墨仙

王政復古.jpg明治神宮外苑聖徳記念絵画館所蔵(壁画)

 □ 中山忠能(議定。明治天皇の外祖父)が開会を宣し、続いて公卿側から、「慶喜に官位(内大臣)の返上と領地の返納を求める」との議題が提出された。
 それに対し、まず山内容堂が「当会議に徳川慶喜が召されていないのは、公平な処置とはいえない。慶喜を早々に朝議に加えられたい。」と会議の構成に関する動議を提出したところ、大原参与が「徳川慶喜は、大政奉還の忠誠の実証をみせるべきである」として慶喜の官位拝辞と所領400万石の上納(辞官納地)を求めた。このあたり公卿側は金の問題がまず頭にあったのか、その理屈は一寸筋が違うように思える。

 □ これに対し容堂は「徳川慶喜が祖先より受け継いだ将軍職を投げうち、政権を奉還したことこそが忠誠の証である」として、「すみやかに徳川慶喜を朝議に参加させて意見を述べさせるべきである。」と述べ、「今日のような独断による朝議は頗る陰険にわたっている。」と反論し、「この暴挙を敢えてした2,3の公卿の意中を推しはかれば、幼冲の天子を擁して、権力を私(わたくし)しようとするもの。」と、岩倉具視を暗に名指しして厳しく糾弾した。
 岩倉は、「幼い天子を擁して」とは無礼にもほどがあろう」と容堂を一喝し、あくまで慶喜が辞官納地することが朝議参加の前提であると反発した。

 □ 議事は賛否両論に分かれて紛糾し、討幕派の求める動議を容れ、一時休憩となった。この休憩中に、警備にあたっていた西郷は、敷居際に陪席を許されていた薩摩藩士岩下左次右衛門に、「匕首(あいくち)一振りあれば片付くことではないか。このことを岩倉公によく伝えるように」と告げた。容堂を刺殺すべしとする暗喩である。

 岩下を通じて西郷の意向を伝え聞いた岩倉は得心し、西郷の暗喩を浅野茂勲に伝えた。浅野はこの話を家来の辻将曹に、辻は後藤象二郎に伝え、後藤はこれを容堂と春嶽に伝えた。
 伝えられた西郷の殺意と岩倉の決心は容堂と春嶽を戦慄させるに足り、両名は身の危険を感じて沈黙した。

 □ かくして朝議は徳川慶喜に「辞官及び200万石の納地」を命ずることを議決した。以後討幕派は、幕府の武力討伐に傾斜し、慶喜の大政奉還行動は、結果としてこの動きを幇助した結果になった。

二条城退去

 □ 朝議の模様を聞いた二条城在陣の万を超える将兵は憤激して、収拾がつかない騒ぎになった。
 慶喜の「辞官」はともかく200万石の納地、即ち体のよい政府による没収は徳川幕府の禄を食んでいる旗本達のリストラを結果するからである。
 翌12月10日、松平春嶽が朝旨伝達の大役を帯びて二条城を訪れた。会津藩士が市中で薩摩藩士と衝突し、双方から死傷者が出るという殺気立った雰囲気のなか、「将軍職の辞任を認める。なお官位は一等を下り、政府費用として徳川家所領のうち200万石を上納せよ」という小御所会議の決議事項を告げた。さぞや身の危険を感じたであろう。

 □ 思惑が外れた慶喜は顔を土気色にしてことの顛末を聞いて、腸が煮える思いであったろう。大政を奉還したことを褒めてくれとは言わないが、まさか200万石の納地を求められたのは想定外のことであったに違いない。しかしそこは宮廷政治家である、外面は平静を辛うじて装っていた。
 慶喜はこの時期、旧幕府の軍事力に対して自信を持っていた。手持ちの兵力をバックにして、しかし暴発を回避しながら持久し、新政府の土佐(山内容堂)、尾張(徳川慶勝)、越前(松平春嶽)ら公議政体派の後押しを得て、大政奉還と引き替えに狙った慶喜を首班とする議院政権実現に向けてじわじわ位押(くらいお)しに迫ってゆく構想を持っていたと想像される。
 しかしそれは幕府が幕府であったればこその話で大政奉還をしてしまった以上、慶喜はいわゆる「同輩中の首席」にとどまり、朝廷や討幕派はもとより、一般の大名たちに対しても大政奉還以前の権威は急速に失われてゆく。

 □ 二条在陣の将兵は激昂し、老中の間にさえ主戦論が高まった。
 暴発の事態を憂慮した慶喜は各級指揮官を集めて妄動を禁じ、旗本兵5000千余人、会津兵3000余人、桑名兵1500余人を城中に拘束して外出を禁じた。

 □ 12月12日、慶喜は会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬に、二条城を去って大坂に下る意向を明かす。「余に深謀あれども、事密ならざれば敗るるが故に、今は明言せず」とし説得してその深夜、慶喜は全将士に隊列を組ませ、先頭に立って下坂して行った。 新旧入り交じりの装備と、統一的指揮を欠く、いわば雑軍の体であり、将兵はいずれも先行きが見通せない中、誰に向けようもない憤りを一様に抱いていた。
慶喜の巻き返しなるか

 □ 大久保一蔵は慶喜の二条城退去を「これ必ず大坂を根拠として親藩・譜代を語らい、持重の策をもって五藩(薩・土・芸・尾・越)を離間し、薩長を孤立せしめて挽回策を講ずるものならん」と警戒している(「大久保利通伝」。鈴木「明治維新の正体」に引用)。

 □ 12月13日大坂城に入った慶喜は、12月16日、英・仏・蘭・米・普(プロシア)・伊(イタリア)の六国代表を謁見し、「遠からず我国の政体を定めるまでは自分が責任をもって外国との条約を履行する」と通告し、外交権は自分の手にあることを宣明した。

 □ 他方維新政府は、首尾よく権力は奪取したものの、組織らしき体を漸くととのえただけで、自前の予算組むこともできないていたらくであった。新政府が徳川氏に納地を迫ったのは、徳川家の領地を上納させ、まずは財政難を打開するためでもあった。新政府の出納係だった戸田忠至が大坂に下り、徳川慶喜に嘆願し、金5万両を借用し、慶喜は早晩新政府の首班になるつもりであったからであろうか、これに応じている。

 □ 土佐・尾張・越前三藩の公議政体派が巻き返しをはかり、新政府三職会議の空気が徐々に微妙に変化してゆく。
 大坂城では江戸から続々上坂してくる兵力に意を強くして、12月17日、佐幕過激派が慶喜の名義で「挙正退奸の表」を奏聞している。幼少の天子(明治天皇)を諫め、速やかに天下列藩の衆議を尽くせられ、正を挙げ、奸を退け」るとし、これに賛同する面々は、「人数召し連れ早々上坂し候よう致さるべく候」と動員令を発しよう試みた。流布された範囲は不明であるが、それなりの心理的効果を上げた。

 □ 18日の朝議においては、諸外国に対し、①将軍職を廃止すること、②大日本の政治はすべて天子(天皇)が決すべきこと、③諸外国の条約は将軍(大君)の名で行うが、以後太政官(朝廷の首班)がこれに代わること、等を骨子とする宣言案を通告することが検討された。しかし理由は不明のまま通告は見送られた。

 □ 同日あらたに「革政所」の設置が提案された。藩主クラスの人材として徳川慶喜、鍋島閑(かん)叟(そう)ら8名、諸藩士14名。そのうち徳川から8名、薩摩から5名、その他長、肥、越らの各藩から各1名宛を選出するという、徳川家を与党第一党とする連合政権構想であり、打倒徳川を主張する勢力からすれば大譲歩であったが、慶喜は辞官納地の条件緩和を求めて会議は紛糾した。その後は鳥羽伏見の戦いが勃発し、結局この案は立ち消えとなった。

 □ 岩倉や三条実美は「もし慶喜が自主的に辞官納地を奏請すれば、会桑両藩を慶喜の入京参内を許し、議定職に補してもよい」という妥協点を模索しはじめていた。
 12月24日、この妥協案は、中山忠能はじめ議定・参与の大勢を制し、①慶喜に対して、将軍職辞職にともなって、朝廷辞官の例に倣い、「前(さきの)内大臣」と称すべきことを許し、②政権返上に伴う納地の件は、「御政務用度の分、領地の内より取り調べの上、天下の公論をもってするべきこと」としていわば納地については先送りする案となっており、12月28日、慶喜は右の沙汰書に対する請書(承諾書)を提出し、準備整い次第上洛することも合意された(但し「軽装で」という条件のようである)。

 □ 慶喜の復権は確実な一歩を踏み出した。このペースで着々と進めば、近い将来、慶喜は新政府部内にしかるべき地位を回復するはずであった。しかし事態は思わぬ方向へと進み始めた。

庄内藩屯所への銃撃等

 □ 過ぐる12月22日、江戸芝赤羽橋にあった庄内藩(17万石)の警備屯所に銃弾が撃ち込まれた。藩主酒井左衛門尉忠篤(ただすみ)の手勢が配下の新徴組と共に予ねてより江戸市中取締を引き受けていたのを目標にしたのである。
 翌23日、江戸城二の丸が炎上した。犯人はかねてから薩摩藩から送り込まれて後方攪乱を策動していた薩摩藩士伊(い)牟(む)田(た)尚(しよう)平(へい)であり(ヒュースケン事件の下手人)、天璋院付の女中に手引きさせて放火したとされている。同日、三田同朋町の屯所が銃撃され、居合わせた2人の町人が流れ弾に当たって死んだ。発砲者は近くの薩摩屋敷に逃げ込んだ。

 □ 実はかねてから西郷は、江戸及びその周辺で攪乱工作をするために益(ます)満(みつ)休(きゆう)之(の)助(すけ)・伊牟田尚平を江戸に送り込んでいた。この二人は10月以来三田の薩摩藩邸に潜み、「天璋院(篤子、十三代将軍家定未亡人)様御守衛」という名目で公然と諸国の浪人を募集し、たちまち500人の浪人隊を組織した。
 そして11月中旬から浪士隊は市中の豪商の店に押し入り、勤王活動費として大金を強奪するなど府内を騒擾し、御用金強盗をかたる押し込み・略奪・強請も方々で起きる。捕吏に追われると、これ見よがしに薩摩藩邸に逃げ込むなど、露骨な挑発行動を行うようになった。
 また11月29日、出(いず)流(る)山(さん)(現栃木市)で勤王討幕の旗印を掲げた浪士の一隊が甲府制圧を呼号して決起し、12月15日、別働隊が相模国荻野山中藩の陣屋(現神奈川県厚木市)を襲って放火するなど、一円に社会不安を生じさせる。

薩摩藩邸焼き討ちと薩摩軍艦砲撃

 □ 露骨に繰り返される挑発で、庄内藩も堪忍袋の緒を切った。渋る幕閣を突き上げて、実力行使に踏み切らせる。勘定奉行小栗忠順らの旗本主戦派もこれに同調。薩摩藩に犯人の引き渡しを求めるがもちろん拒絶される。ついに12月25日の朝、老中稲葉正邦の名で薩摩藩邸焼き討ちの命令が下された。

 □ 薩摩藩邸焼打等は庄内藩が主力になり、出羽上山藩・越前鯖江藩・武州岩槻藩から支援が加わって、都合1000余人の兵士が、薩摩藩邸を包囲した。幕府からは歩兵隊が参加し、フランス陸軍顧問団のブリュネがひそかに作戦を授けた。形ばかりの交渉が決裂するや否や、庄内兵は正門に大砲を撃ち込んで攻撃を開始、邸内とその周辺で猛烈な市街戦になった。薩摩藩側では49人が戦死した。こうして江戸では両軍が戦闘状態に入っていった。

 □ 薩摩藩邸焼き討ちを知らせるため旧幕閣は大目付の滝川具挙(具知とも)を直ちに大坂に向かわせた。軍艦順動で出発し、28日に到着した。もたらされたニュースに大坂城内は沸き返り、一挙に主戦気分が盛り上がった。

 □ 折から兵庫港には旧幕府海軍の開陽(旗艦)・幡竜・翔鶴・富士山らの主力艦及び滝川が乗ってきた順動(405トン)の5隻が碇泊していた。同じ日、艦隊司令官(兼開陽の艦長)榎本武揚の元に急報が届いた。急使は、榎本に対し薩邸焼き打ちの勃発を伝え、「ついてはなお脱走の輩も斗(はか)りがたく候あいだ、右様の者見聞に及び候わば、速やかに召し捕り、自然手余り候わば、討ち捨て候上早々訴え出候よう致すべし」と指示を与えている。
 12月30日に薩摩藩の軍艦2隻(春日と平運)が入港してきた。年明け(慶応4年)1月2日の夕方、開陽は、脱出を図った平運に砲撃を加えて損傷を与えた。薩摩艦側が抗議して談判になった時、榎本は使者に向かって「尊藩はもはや弊藩(旧幕府)の敵と存じ候」と通告している。徳川家と薩摩藩はこうして兵庫でも戦闘状態に入ったのである。

 □ 西郷が薩摩藩邸焼打の情報を得たのは慶応4(1868)年の元日だったが、1月4日、旧幕府の追求を逃れ、江戸から這々の体で戻った伊牟田尚平らが京都二本松の薩邸に西郷を訪ねた時は、「今日の伏見の戦争はまだ2,3ヵ月先であるつもりであったけれども、全く君らが江戸においての尽力によって昨年の12月25日の事に及んで、今日の戦争が起こったわけで、始めて我が輩の愉快な時を得た」と、「これで旧幕府に対し戦いを起こす名分が立った」とばかり大喜びで感謝したと後に述べている。

討薩の表

 □ 慶応4年正月元日、慶喜の名義で発出された「討薩の表」なる書面が作られている。
 「討薩の表」は、「12月9日以来の事態(注:王政復古の号令)は、朝廷の真意とは考えられず、島津家の奸臣どもの陰謀である」とし、
「殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨(らんぼう)及び劫盗(ごうとう)候儀も、全く同家家来の唱道により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎むところに御座候あいだ、前文の奸臣どもお引き渡し下されたく、万一御採用相成らず候わば、止むを得ず誅戮を加え申すべく候」
としている。この討薩の表なるものは、慶喜の真意を反映したものではないと言われているが、結局は慶喜は旧幕臣に押し切られてその名で作成することを肯じたと解するのが正しいように思われる。

幕臣の突き上げ

 □ 旧臘24日の朝議で、慶喜に対し上洛するよう沙汰があり、慶喜としても諸事談合のためとあらば軽装で参上するつもりであったが(山内容堂や松平慶勝あたりからそうするように伝えられていた)、京都にいる薩摩を討つ絶好の機会であるとする旧幕府強硬派の勢いはとどまらず、大坂城内は「薩摩討つべし」の勢いが沸き返ってほとんど狂乱の体をなしていた。板倉老中は「将軍弑逆(しいぎやく)のおそれがある」とまで述べて、頻りに「武装上洛」を説き、慶喜もやむを得ず正月元旦に率兵上京を許したようである。

 □ 当日慶喜は風邪で臥っており、「『上洛するなら勝手にしろ』というような考えも少しばかりあった」、と維新後に述べているが、ここにおいて慶喜は将軍としてのリーダーシップを既に喪失していた。風邪をひいていたにせよ、そうでないにせよ慶喜はどうしようもない苛立ちと無力感のうちにあり、寝ているより仕様がないという気分ではなかったかと想像される。以後の行動に照らし、この段階で慶喜はすでに勝負を投げていたのではないかと思えてくるのである。

 □ 軍勢は慶喜の胸中を推し量ることなく、討薩の表に従って動き始める。老中板倉勝静の側近神戸謙二郎は、旧幕府の目付や陸軍方が上洛して薩摩を打ち払う(討薩)ための上洛に一決したと板倉から聞かされた。仰天した神戸らは、徳川家から兵端を開いたとあっては相手の術中に飛び込むものだと、若年寄永井尚志や会桑両藩を説得に回ったが結局のところ奏功しなかった。

慶喜上京差し止めの沙汰書

 □ 一方、新政府の側も過ぐる12月24日に一旦慶喜上洛を認めている以上、慶喜の軍勢が討薩表を掲げ上京の動きを示したからといって直ちに賊軍とみなすわけにはゆかない。まずその上京を差し止める名目を勝ち取らなければならなかった。
 正月三日、大久保利通は戦乱を恐れて気弱になっていた岩倉具視へ書翰を送り、①旧幕軍の上京を牽制するため、尾越両藩に慶喜との周旋を図らせたこと、②慶喜の下坂を許したこと、③慶喜の上京を許し、議定に任命しようとしていることは、失策であったなどと述べて、慶喜の上京を阻止する旨を「断然朝決」すべき旨を懸命に言上した。

 □ こうした工作も与って、慶喜に対しては漸く次のように上京差し止めの沙汰が下った。
「先達って下坂に付き、尾・越両藩への鎭定の儀仰せつけられ御請申し上げ候ところ、今日大兵伏見表へ押出し候趣、如何に思し召され候、都下人心動揺にも及ぶべく候あいだ、御沙汰これ有り候迄、上京の儀見合すべく候事」
 ここでは、罷免した会桑の兵力(「大兵」)を伴って上京しようとしていることが上京差し止めの理由とされた。もしこの命に従わなければ、朝敵として扱うことができる根拠を討幕側に与えたのである。

 □ 既述の通り、慶喜は議定職に補任されることを期待して、かつまた討薩表にもとづき騒擾犯人の引渡を求めて上京するという名分がある。
 薩摩側は慶喜の上京を見合わせるべしとする上記沙汰書にもとづき上京阻止に動き始める。薩長土芸の四藩(討幕派)に対し警備出動が命ぜられた。
 このように異なる立場に立つ勢力が対峙すれば衝突は必至である。

対峙する兵力

 □ 野口『鳥羽伏見の戦い』によると対峙した旧幕軍歩兵隊の総員は6000人前後であった。これに会桑はじめ高松・大垣・伊予・松山など佐幕諸藩兵を加えるとほぼ1万。大坂城には後詰めの5000人がおり、旧幕軍は公称1万5000という勘定になる。大砲は全部で22門、洛中及び鳥羽伏見方面には合計18門が配備されている。主力は四斤山砲であった(口径86.5ミリ、軽量で機動性に優れ、榴弾・榴霰弾・霰弾等の、重さ4kgの砲弾を発射する。分解して駄馬2頭で搬送することができるなど使い勝手が良かったであろう)。
  対するに新政府軍は、緒戦においては薩摩藩と長州藩だけが戦力であり、薩摩藩の兵力は約3000人、(小銃20隊と四斤山砲装備の3砲兵隊など)であったとしている。長州兵力は1000余人(奇兵隊、遊撃隊など6中隊。砲兵はいない)である。長州藩は長らくそれまで「朝敵」であり、王政復古でやっと復権を得たので戦いへの参加は遅くなって、実勢力はこの程度であった。

 □ 新政府軍(実態は薩摩軍)の劣勢は覆うべくもない。新政府の中では戦いを起こすことに不安があり、後刻、鳥羽伏見に戦端が開かれたとの報が宮中に達したとき、芸州の辻将曹が「戦争は私闘にしておしまいなさい」と言った。旧幕軍と薩摩の私闘であれば朝廷に累が及ばない、と。これを聞いた青年公卿の西園寺公望(明治維新後に首相となる。このとき18歳)が言下にこれをたしなめた。この西園寺の一言によって私闘論は霧散した。芸州は辻の一言により新政府における発言力を失った。

 □ ところで西郷はキメ細やかな気配りもできる人物で、万一新政府軍が敗退した場合に備え天皇を山陰地方に動座するプランや、仁和寺宮嘉彰親王その他の皇族に令旨を発して諸国に派遣し、討幕の軍を興す等の構想を練っていたと言われる。

鳥羽方面の戦い

 □ 薩摩軍は旧幕軍の入京を阻止するため、「万一承服致さざる時は臨機の取り計ひいたし苦しからず」、即ち現場の判断で発砲してもよいという内命を受け、1月3日の時点で鳥羽街道に進出し、鴨川あたりに陣を張っていた。

 □ 一方旧幕府軍は、淀に置いた本営を出発して鳥羽街道を北上した。
 「討薩の表」を懐中にした大目付滝川具挙が会津藩見廻組400人の護衛を受けて先頭に立ち、四ツ塚関門を通過しようと談判して拒まれた。
 相手はいつでも発砲できる用意があるのに、幕軍の見廻組はもともと着剣した小銃を装備しない部隊である。勢いに押されて1,2町(約200メートルほど)退いたのにつけ込んで、薩摩兵は戦闘隊形で圧迫しつつ鳥羽街道を南下。鴨川に架かる小枝橋を渡って、路上に大砲一門・歩兵半小隊を置き、西岸に広がる田畑の丸岡や竹藪に散兵を配置し、城南宮の南に砲8門、街道の東側に3門を据えた。
 歩兵の一箇大隊は小枝橋を渡らず、鴨川左側の川原に潜んで待ち構えていた。
 滝川播磨守の後方には、二条城へ入場予定の大久保主膳正指揮下の徳山隊2大隊が行列しており、さらに鳥羽街道前進を命じられた秋山隊一大隊及び桑名藩が追尾していた。薩摩側の文書には「敵兵1万人ばかりが雲のように押し来たり」とある。
 旧幕府軍の先頭は赤池北端にあって、旧幕府軍と対峙した。ところが驚くべきことには、目の前で薩兵が散開しているにも拘わらず、幕軍は横に広い隊形に変化せず、道路に2列の行軍縦隊で停止していたのである。しかも歩兵隊は銃に弾込めを命じていなかった。

【修正版】鳥羽伏見の戦い要図_02.png

開戦

 □ 夕方の5時頃、「通せ」「通さぬ」の談判が決裂して、旧幕府軍は歩兵隊を先に立てて押し通ろうとし、先頭は左折し小枝橋に至ろうとする。強行突破できると目論んでいたからか、戦闘隊形をとっていなかった。 この機会を待っていた薩摩藩部隊は、用意のラッパが吹き鳴らされると同時に、街道正面の四斤砲を発射する。同時に、左右の田畑に伏せていた部隊が小銃を一斉に発射し、城南宮前の3門も砲撃を開始し、川向こうの伏兵も横射し始めた。縦隊をなしていた旧幕府軍は、十字砲火cross fireに曝された。先頭が薙ぎ倒され、残りは蜘蛛の子を散らすように崩れ立った。薩軍の砲弾が路上の幕軍砲車に命中してこれを吹き飛ばした。

 □ 滝川播磨守を乗せた馬が砲声に驚いて狂ったように暴走を始め、後続の隊列を蹂躙しながら鳥羽街道を南に走り去った。巻き込まれた士卒は算を乱して敗走し、旧幕軍は大混乱に陥った。
 滝川は這々の体で淀まで逃げ帰ったが、そのような状況であったから「討薩の表」を京都に届けるどころではなかった。「討薩の表」は松平春嶽のところにたらい回しにされ、1月5日になって始末に困って尾張家とも相談してやっと岩倉具視に達されたという。その頃戦いは終わっていた。

 □ 薩摩兵は街道と畑地を散開して前進した。見廻組や桑名兵が総崩れの旧幕兵を必死で収拾した。
 旧幕軍の反撃もあり、戦況は局部的には一進一退の場面もあったとは言え、開戦劈頭の新政府軍の奇襲に始まる戦闘は新政府軍の勝利に終わった。
 日没後も戦闘が続いた。夜の8時半頃、慶喜の上京を差しとめ、押し通れば朝敵であるとする沙汰書きが前線に伝えられ、薩摩軍は戦勝は我にありとして沸き立った。

伏見方面の戦い

 □ 伏見の戦線では、1月3日には陸軍奉行の竹中丹後守が伏見奉行役宅(陣所)に入っていた。奉行所は伏見の町の東端にあり、東は人家が少なく桃山丘陵の麓(ふもと)に接し、南は宇治川、北は御香宮、西は町家に面し、北西に東本願寺がある。

 □ 薩摩兵は桃山の丘陵と御香宮の境内に砲兵部隊を配置し、奉行所の北側には小銃5小隊を散開し、北と東を扼していた。
 午後2時頃から、薩摩兵が伏見街道の上に設けた関門に会津藩兵と遊撃隊士が詰め掛けて、通過させろ、させないの押し問答が始まっていた。

 □ 午後5時頃、鳥羽の方角からのろしを上げるような音が聞こえ、続いて遠い砲声が響いてきた。鳥羽街道で戦闘が開始されたのである。
 薩軍はこれを待っていたように、奉行所に照準を合わせていた9門の大砲を一斉に発射した。砲煙が立ちこめる中で、奉行所の門が押し開かれ、幕軍遊撃隊50人を先頭に、数百人が突出した。薩軍は真横と正面から榴弾を打ち込んでこれを薙ぎ倒した。銃を持たない幕兵は接戦に持ち込めずに押し戻され、家屋の蔭に畳や戸板で防壁を作って身を隠した。だが屈したわけではなく、今度は歩兵隊を先頭に再攻撃してくる。

会津隊の逸機

 □ ところで陣立ての指揮の混乱もあって、土佐藩の渋谷伝之助小隊が率いる正面に会津兵が来て問答のすえ、「土佐守備地域の右翼を迂回前進するのは勝手次第」という返答を得た。
 そこで会津藩の白井五郎太夫の大砲隊は砲三門を途中に捨てて一門だけを曳き、土佐藩兵守備地域の右翼を迂回し、その背後に出て伏見堺町の薩摩屋敷を襲ったが、空邸だったので火を放ち、なおも竹田街道を北進した。途中で正面の戦闘が味方に不利なるとの伝令に接し、呼び返された。
 しかし、折角「竹田街道無守備」という報を得て白井支隊が前進したのだから、若しこの報が適時に竹中指揮官に達したなら、正面の旧幕兵の一部を割いてでも会津兵に追求せしめ、土佐兵の背後に出でて東方に向かい、藩・長兵を包囲できたであろう。旧幕府軍にとっては逸機というほかはない。

 □ 両軍を隔てる大手筋の南は奉行所の土塀、北は町家である。凄絶な市街戦になった。歩兵は匍(ほ)匐(ふく)したり、軒下を伝ったりして薩摩軍の陣地に迫った。民家の屋根から狙撃する兵士もいた。銃を持たない兵も路上に畳・戸板を持ちだし、これを楯にして敵陣に肉迫した。
 対する薩摩兵は、密集隊の四列縦隊―前2列は膝打ち、後2列は立射ち―の構えをとり、全員が銃に着剣していた。装填と射撃を分担することによって、間断なく発砲することができるようにする戦法であり、旧幕軍の斬り込みを有効に阻止した。
 西を守る会津藩兵や新撰組も弾幕で撃退された。東南では、幕府歩兵隊が密集して銃剣突撃をこころみたが、四斤砲から霰弾を浴びせかけられ、突撃を繰り返すたびに犠牲が増していった。

  【参考ホームページ:「鳥羽伏見の戦い簡略地図」(歴声庵)

奉行所陥落

 □ 午前零時頃、長州の一隊が抵抗の一角を破って奉行所に突入した。薩摩兵も続いて乱入し、建物に火を放った。旧幕兵は炎を背にして照らし出され、狙撃の好餌になった。狭くて動きが取れなくなった奉行所からは撤退を余儀なくされた。

 □ その後間もなく、奉行所に長州兵、薩摩兵が突入した。混乱のさなか、現場総指揮官の竹中丹後守は確立された命令を下すことができず、兵をまとめることもできなかったため、諸隊は算を乱して撤収するしかなかった。各部隊は自分の判断で堀川に架かる橋を渡って中書島、浜町に後退し、橋梁に防御線を張って野営した。
錦旗上がる

 □ 鳥羽伏見で薩長藩兵が勝ったというニュースは、たちまち御所に伝わり、朝廷の空気は一変した。露骨なもので薩摩藩への態度は手のひらを返すように好意的になった。当時西郷隆盛の身辺にいた伊集院兼寛(かねひろ)の手記によれば「捷(しよう)(勝)報一度達するや、宮中疑懼(ぎく)の色変じて、欣喜の声となり、前には西郷・大久保の宮中にあるや、蛇蝎の如く近づくものなかりしを、陸続来り面晤を請ふもの多く煩に堪へず」(『伊集院兼寛日誌』)という有様になったのである。

 □ 動揺していた三条実美・岩倉具視も元気づき、4日、軍事総裁嘉彰親王(仁和寺宮)を征夷大将軍と為し、錦旗・節刀を与えて出馬するよう朝命を下した。これに対して参謀伊達宗城(宇和島)は、現在戦闘に参加しているのは薩長二藩のみであり、このまま征夷大将軍が出馬しては、この二藩の意図から朝議が出ているようになる。諸藩の公議を尽くすべきであると主張し、土芸もこれに賛同した。薩長の戦闘はいまだ藩兵との私闘であると解される可能性もあったわけである。
 しかし勅命は覆らず、親王は東寺まで出馬する。異議のあった宗城は翌日参謀を辞職した。
 錦旗のシンボル効果は絶大だった。薩長軍は官軍であることを高らかに宣言し、どちらが官軍でどちらが賊軍なのか、決めかねていた諸藩に大きな影響を与えた。

錦旗巡行

 □ このように言うと錦旗が翩(へん)翻(ぽん)と翻る中、親王は戦場を馳駆したかのようであるが実はそうでもないのである。
 1月5日の早朝、征討将軍仁和寺宮嘉彰親王は東寺の本陣から戦場の視察に出発した。(戦いに対する脅えはひととおりでなかったという)先陣は薩摩藩の一小隊を配し、次に錦の御旗二旒(りゅう)を左右に押し立てて五条為栄(ためしげ)が護衛する。馬上豊かに進み、烏丸光徳・東久世通禧の両参謀が供奉(ぐぶ)、安芸藩一小隊が護衛を務めて鳥羽街道を南下してあたりを歩行して彼方の戦況を視察し、午後2時過ぎ、砲声が静まったので淀近くまで進出。そこに馬を立てて諸軍に慰労のお言葉を賜り、川堤を回って伏見の焼跡を巡見し、夕刻に東寺へ帰還した。
 錦旗の巡行といってもそれだけの行程であるが、前線兵士の感激は大変なものであった。大袈裟であるが次のようであったという。
 薩長の軍兵、累日昼夜の交戦に相つかれ、淀市中に暫時息を休むる所に、征夷大将軍鳥羽街道を下り、淀の戦場を御進発あり。錦旗風にひるがえれば兵士これを見て一同拝伏し、頭をもたげ得ざるもあり。涙を流すもあり。または手を打ちて踊躍するもありて、一同勝ち鬨を揚ぐれば、その声山嶽にひびき、淀城も崩るるばかりなりと、(春山・田中両士日記)(野口「鳥羽伏見の戦い」より引用)。
 ただし、交戦中に旧幕軍兵士に錦旗がみえたかどうかはすこぶる疑わしい。砲弾が錦旗に撃ち込まれた記録が残っていないのは、旧幕側に見えていなかったからであろうが、逆に実物が見えないからこそ、誰も正体を知らない幻の錦旗が観念の中で異様に膨れ上がったといえる。

慶喜動揺

 □ 一番衝撃を受けたのは、大坂城にいた徳川慶喜であった。
 やがて錦旗の出たるを聞くに及びては、ますます驚かせ給い、「あわれ朝廷に対して刃向かうべき意思は露ばかりも持たざりしに、誤りて賊名を負うに至りしこそ悲しけれ、最初たとい家臣の刃(やいば)に斃(たお)るるとも、命の限り会桑を諭して帰国せしめば、事ここに至るまじきを、我が命令を用いざるが腹立たしさに、いかようとも勝手にせよといい放ちしこそ一期の不覚なれ」と、悔恨の念に堪えず、いたく憂鬱し給う。(『徳川慶喜公伝』。野口『鳥羽伏見の戦い」から引用)。
 あたかも、会津藩の暴発を阻止できなかった憾みを述べている如くで、これでは会津藩の立場はない。 会津藩にしてみれば、慶喜がなぜ今さら狼狽し、責任転嫁するのか不可解であったであろう。

政府軍の進撃

 □ 1月5日、新政府軍の手勢は三手に分かれ、一手は鳥羽街道、もう一手は桂川右岸を越えて山崎街道へ、さらにもう一手が伏見街道から進撃した。狭い街道を全体がゴッタ返しに進んだのでは犠牲者が増えるばかりだとして諸隊を分進させることに意見がまとまり、兵を三手に分け、同調して淀の旧幕軍本営へ、大坂へと進撃する作戦を立てたのである。

 □ 1月5日富ノ森陣地の攻防で始まった鳥羽街道の戦闘も山崎街道の正面も接戦が続いた。砲(四斤山砲ら)が戦場の主力となる。榴弾、榴散弾、霰弾がとびかった。鳥羽街道では富ノ森陣地で旧幕軍が突破され、伏見街道では淀堤を新政府軍が攻め下った。対するに幕軍が淀の本営から攻め上り、伏見から千両松近辺までの約4キロの間において激戦が繰り広げられたが、旧幕軍は大兵力を有している割りに指揮の不備からその力を集中して発揮できず、徐々に押されて行った。
 いったん千両松の阻止線が破れたら後は一本道を後方から押されて前進してくる薩長軍の圧力で旧幕軍も逐次後退し、竹中丹後守は遂に淀まで退却する。鳥羽街道からも別隊が敗走してきたので、淀の城下は両街道からの敗兵がひしめく有様となり、竹中丹後守も自軍の統制に自信を阻喪していった。

淀藩・藤堂藩の裏切り

 □ 新政府軍は1月5日午後2時頃、淀の市街地に接して宇治川にかかっている淀小橋に達した。旧幕軍本営は、自軍の劣勢を立て直すために淀城に入って兵をまとめようとした。ところが予期に反し淀藩は淀城への入城を拒絶したのである。
 淀城は稲葉美濃守10万2千石の居城であり、譜代の家柄である。正邦は老中職にあって、当時江戸に滞在中で、当主(先述した薩摩藩邸焼き打ちを認可した)は不在であり、淀城入城拒否は留守居の家臣の独断による。

 □ その経緯はこうである。即ち、正邦の義兄である尾張藩主徳川慶勝から淀藩留守居役を通じて藩は中立墨守すべき旨を言ってよこし、また三条実美からも新政府軍の本営への出頭命令が伝えられ、淀藩目付石崎郁蔵がこれに応じて出向く途中、薩摩藩の島津式部(一番大砲隊差引)と会って「旧幕府軍を淀城へ入れることはならぬ」と強要された。こうした空気が城中に拡がり城中に動揺を招いた。城中に入ろうと要求する旧幕軍と淀藩の間に押し問答が続けられたが、旧幕軍は遂に入城することができず、淀小橋を焼き城下に放火して南へ撤退した。

 □ 宇治川は淀で桂川と合流し、山崎・橋本のあたりで木津川と合流し、以後満々たる大河となり大坂平野へと至る。
 その手前の盆地から平野への出口にあたる狭隘部が山崎地峡とよばれており山崎関門が設けられていた。はるか昔、天正時代(1582年)に山崎合戦に名を残した地帯である。橋本は男山の山上にある石清水八幡宮の門前町であり、山崎と向かいあっている。

 □ 旧幕軍は男山の東側山麓と橋本の前面に胸墻(きようしよう)を作り、橋本に砲兵陣地を構えていた。これに対し新政府軍は宇治川と木津川の合流点あたりから渡河作戦を仕掛ける。
 旧幕軍はよく持ちこたえ、薩長軍との間に激戦が続いたが、6日午前11時頃、山崎関門を守備していた幕軍の津藩(藤堂藩)(32万石)から橋本陣地の旧幕軍側の陣地に向けて砲撃が始まったのである。男山幕軍陣地から桑名兵が応射する。敵前の同士打ちとなったのである。
 藤堂藩はもともとこの戦いを私闘であるとし、徳川家に味方し、幕軍の増派を待ったが、幕軍はすでに鳥羽方面において敗退し、増援を期待するどころではないところへ長州藩の手が伸び、この戦いは私闘に非ず、勅命であるとの申し条が伝えられ、藤堂藩にとって不本意ながら徳川家の援助は来着せず、待ちきれない形で橋本陣地へ攻撃の火蓋を切った。

 □ それまで旧幕軍はこの防禦戦で死に物狂いの抵抗を見せ、薩長兵の正面攻撃は攻めあぐねていたところへ起きたのが藤堂兵の裏切りである。突然の側面砲撃で旧幕兵は茫然自失の状態に陥った。砲弾の炸裂で生じた損害よりも、信頼していた味方に背かれた衝撃の方が大きかった。旧幕軍の戦線は崩れ去った。

旧幕軍総退却

 □ その日の午後4時頃、総督大河内正質と竹中重固・滝川具挙らが橋本から退却し、枚方で軍議を開いた。軍議には会津藩の陣将が加わり、「よろしくこの地を画し、断じて一歩も退却すべからず。犯す者はみな斬に処すべし」(『会津戊辰戦史』)と発議する。ところが竹中・滝川らが防禦線を敷くために地理を観察しようと山上に登ってみると、敗兵たちが続々と守口方面へ引き揚げてゆくのが望見できた。落胆して山を下りたときにはすでに日が暮れていた。そこで陣将らは防戦の意図を放擲し、仕方なく枚方を後にし守口へと落ち延びるほかはなかった。
 3人が守口に着くと、若年寄の永井尚志が慶喜の命令を伝えに来た。「大樹公には考えていることがある由。諸隊すべて大坂に引き揚げよ」という指示であった。

(未完)

<参考文献>
・野口武彦『幕府歩兵隊―幕府を駆けぬけた兵士集団』(中公新書、2002)
・野口武彦『長州戦争―幕府瓦解への岐路』(中公新書、2006)
・野口武彦『鳥羽伏見の戦い-幕府の命運を決した四日間』(中公新書、2010)
・家近良樹『江戸幕府崩壊―孝明天皇と『一会桑』(講談社学術文庫、2014)
・鈴木庄一『明治維新の正体―徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ』(毎日ワンズ、2019)
・松原隆文『最後の将軍徳川慶喜の苦悩』(湘南社、2019)
・石井孝『明治維新の舞台裏 第2版』(岩波新書、1975)
・綱淵謙錠『乱』(中央公論社、1997)
・綱淵謙錠『幕臣列伝』(中央公論社、1981)
・津田左右吉『明治維新の研究』(毎日ワンズ、2021)
・保谷徹『戊辰戦争』(戦争の日本史8 吉川弘文館、2007)
・大山格(和樂web)「実は両者ミスだらけ?本当はこうだった『鳥羽伏見の戦い』勝利の影に隠れた意外な真相とは」https://intojapanwaraku.com/culture/160353/
・大塚進也(歴声庵)「鳥羽伏見の戦い:近代日本の幕開けとなった新政府軍と旧政府軍四日間の死闘」http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/tobafusimi/tobafushimimap.htm

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