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弁護士 堤 淳一

2024年03月21日

太平洋の覇権(38)-----徳川幕府の終焉

(丸の内中央法律事務所報No.44, 2024.1.1)

 大坂城大広間での督戦演説

 □ 敗走する幕府軍は陸続と大坂城へと逃げ込む。城内は上を下への大混乱に陥った。

 □ 慶応4(明治元)1月5日、慶喜は大坂城の大広間に会津藩主松平容保・桑名藩主同定敬、両藩の重役、また幕府の諸将ならびに幕閣の役人を集めて、音吐朗々と感動的な大演説を行った。
 「事、すでにここに至る。たとい千騎戦没して一騎となるといえども退くべからず、汝らよろしく奮発して力を尽くすべし。もしこの地敗るるとも関東あり、関東敗るるとも水戸あり。決して中途に已まざるべし(『会津戊辰戦史』)。」

 □ 連日の負け戦に疲労の色の濃い旧幕軍は、この雄弁でまた力を奮い立たせ、橋本関門で敵を食い止めるべく陣容を整えた。
 本誌第42号の補遺(HP)に既述したように、1月6日藤堂藩の裏切りにあって幕府軍の抵抗線は破れ、ここに戦いの大勢は決した。

 □ ところが大坂城中ではドンデン返しが起きようとしていた。
 慶喜は1月6日に城中で開いた御前会議ではその胸中を明らかにしなかったものの、同日、若年寄(兼陸軍奉行)の浅野氏祐に対し、「時勢は日々に切迫して過激論者の暴挙はもう手が付けられず、制御できるものではない。先供が間違いを犯してついに鳥羽伏見の開戦になり、錦旗に発砲したと非難されて朝敵の汚名を浴びせられるに至ってしまった。自分の素志とはまったく食い違い、もはやどうすることもできない」とし、
「さればとてこの上なお滞城するときは、ますます過激輩の余勢を激成して、いかなる大事を牽き出さんも計られず、余なくば彼らの激論も鎮まりなん、ゆえに余は速やかに東帰して、素志の恭順を貫き、謹みて朝命を待ち奉らんと欲するなり、秘めよ、秘めよ。」(徳川慶喜公伝資料編』三。野口『鳥羽伏見の戦い』による)
と伝えた。

 □ つまり大坂城からひそかに撤退して江戸へ帰るというのである。これには浅野奉行も仰天した。謁見を終え、退出する浅野に対し、板倉老中から一通の書類が手交される。江戸に連れ帰る者の名簿であり、老中酒井忠惇、板倉勝静のほか若年寄ら4名の東帰組、3名の残留組、何れか随意に任せる者1名に区別されていた。『鳥羽伏見の戦い』(野口。末尾参考文献)は、「右の「人選」に照らすと、どうやら慶喜は、老中格で総督の大河内正質、若年寄・副総督の塚原昌義、若年寄並・陸軍奉行の竹中重固に開戦責任を負わせるつもりだったようである」と述べている(但し3名のいずれも切腹せず慶喜の暗喩は通じなかったとみえる)。

 □ 新政府軍はよもや慶喜が大坂城を放棄するとは夢想だにしていなかった。即ち新政府軍はこの段階でいったん兵をまとめ戦略を練り直そうとしていたところ、斥候からもたらされる戦況報告は「敵影を見ず」というものばかりで俄には信じかねる体であった。

 大坂城脱出と将軍の東帰

 □ 慶喜は1月5日に大広間で大演説を行った後、同日深夜、会津藩軍事奉行添役神保修理を大坂城に呼び寄せて謁見した。(昔夢会筆記。野口『鳥羽伏見の戦い』に引用。末尾参考文献参照)
 神保の建言を聴きたれば、むしろその説を利用して江戸に帰り、堅固に恭順謹慎せんと決心せしかど、そは心に秘めて人には語らず。試みに諸有司・諸隊長などを大広間に召し集めて、「この上はいかにすべき」と尋ねたるに、いずれも血気に逸れる輩のみなれば、みな異口同音に、「少しも早く御出馬あそばさるべし」というのみなれば、よきほどににあしらいおき、板倉・永井を別室に招きて、恭順の真意は漏らさず、ただ東帰の事のみを告げたるに、両人は「ともかくもいったん御東帰の方しかるべからん」といえるにより、いよいよそれと決心し、ふたたび大広間に出でて形勢を観るに、依然として予が出馬を迫ることしきりなりしかば、予は、「さらば、これにより打ち立つべし。皆々その用意すべし」と命じたるに、一同踊躍して持場持場に退きたり。

 □ ところが慶喜はその舌の根の乾かぬ翌1月6日、午後9時頃、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、老中(酒井忠惇、板倉勝静)外国総奉行山口直毅のほか大目付戸川忠(ただ)愛(なる)、目付榎本道(みち)章(あき)、奥医師戸塚文海、外国奉行支配組頭高畠五郎ら、ほんの数名を伴連れに、警固の衛兵をあざむき大坂城を脱出してしまう。敵前逃亡である。
 その頃大坂湾には幕府艦隊が臨戦態勢をとって停泊していたが、一行は旗艦である開陽丸に強引に乗り込み、艦長を脅しあげ(艦隊司令の榎本武揚は大坂城で打ち合わせのために上陸していた)、艦隊の指揮系統を紊(みだ)ってまでして出港させた。
 開陽丸は11日午前8時頃には品川沖につき翌12日に慶喜の一行は江戸城に入った。




開陽丸tri.jpg

  開陽丸
造船所:ヒップス・エン・ゾーネン(オランダ)
船種:木造3本マスト・シップ型フリゲート
排水量:2,590トン
上甲板長さ:72.08m
型幅:13.04m
試運転速力:10ノット
備砲:鋳鋼施条前装砲(クルップ製)18門、鋳鉄滑腔前装砲8門等、合計34門
*函館戦争に旧幕軍主力として参加。明治元(1868年)11月15日座礁し、同月26日頃沈没。

 □ 腹心中の腹心と言うべき家臣である板倉、永井も、慶喜が城を脱出する直前まで、東帰して恭順するという計画を知らされておらず、容保、定敬も直前まで本心を明かされなかった。
 彼らが計画を聞かされた時の驚きと怒りは想像に余りある。
 大坂城は壕、石垣、大砲の装備等、いずれをとっても天下に名だたる堅城だった。兵糧も十分に備蓄されており、総力をあげて戦えば、数ヶ月は優に持ちこたえることができたであろう。幕軍艦隊は依然として薩摩海軍に対し優勢であったから、瀬戸内海を堅固に封鎖して物流をとめ、在京の薩摩将兵の糧道を断つなどして数ヶ月間持久し、旧幕軍の充実を待ちつつ諸外国に対して外交上の理解を得る等々、数ヶ月を持ちこたえれば、形勢を観望している大多数の藩(殆どの藩が日和見なのである)も動揺するに違いない。

 □ 開陽丸の艦上で松平容保は、1月5日の「あの勇壮な出撃命令の後で、なぜこんなに急に東下する決心をなさったのですか」と慶喜に尋ねたのに対し、慶喜は「あの調子でやらなければ衆兵が奮い立たないからだ。方便だよ。」と辻褄の合わない答えをしたという。確かに諸兵を奮い立たせておいて敵前逃亡ときては辻褄の合わせようがない。
 「硬説に傾きてこの台命を発せられしが、例の変説病次いで発し、東帰に決したるもののごとし」と『合本戊辰戦争史』にある(野口『鳥羽伏見の戦い』の引用による)。慶喜の変説癖については後述する。
 ともあれ、慶喜の一連の行動によって鳥羽伏見の戦いは事実上終了した。

 慶喜追討令と官軍大坂城接収

 □ 1月7日有栖川宮熾仁親王が、小御所に議定、参与、京都諸侯を集め、慶喜追討文を読み聞かせ、次いで岩倉具視が諸侯に対し、「帰国するもよし、また大阪へ向かいたい者はそうせよ」と、在京諸藩に朝廷への帰服を暗に迫った。各藩はこれに対し、続々帰服の請書を出し、朝廷ないし薩長両藩は政治的にも主導権を確保するに至った。

 □ 同日、大坂城内から幕軍兵が続々と退去した。こうして忽ち空屋同然となった大坂城に市中及び近隣の住民たちが侵入し2日ほど掠奪を恣いままにした。
 そうした混乱のさなかの1月9日、城明け渡しの事務を担任する旗本の妻木多宮が尾張、越前、長州らの藩士と交々城引渡しの手続をめぐって協議していたところ、突然城中から火の手(「地雷火」とも言われた)が上がり、城は猛火に包まれ大部分が焼失してしまった。幕軍による自焼の嫌疑もあったが、結局原因は不明に終わった 

 □ 1月10日、征夷大将軍仁和寺宮は鎮火後の大坂城に入城して接収し、西国掌握の本営とした。
 また同日、今回の戦争にかかわりを持った慶喜、容保、松平定昭(伊予松山)、松平頼聡(讃岐高松)、板倉勝静(備中松山)、大河内正質(上総大多喜)の他、永井尚志・平山敬忠など諸旗本の官位を剥奪し、小浜・富津・大垣・延岡・鳥羽の各藩主の入京を禁止した。

 □ 1月17日、新政府は外国との和親を国内外に宣明し、1月25日英、仏、米、蘭、伊、普の6箇国は新政権を交戦団体として認定し、局外中立を宣言した。(注)
 この間1月19日フランス公使ロッシュは江戸城に慶喜を訪ね、列強の保護のもとに、「更なる大乱を予防するため」蜂起することを勧め、「大君(タイクン)も時をおいて再挙をはかっている」と予測したが、慶喜は明確に意思を表明しなかった。

 慶喜の身柄処分

 □ 1月17日慶喜は、春嶽、容堂に書簡を送り、朝敵処分の解除を依頼、「素より、途中行違により、はからずも供の者が争闘致したまでのことにつき・・・かくのごとき処分は甚だ心外である」として追討令に異議を唱えている。
 同日、慶喜、静寛院宮(皇女和宮(家茂未亡人))に面会を求め、朝廷へのとりなしを依頼した。
 1月28日、春嶽は慶喜に書簡を送り、朝廷に謝罪するよう勧告し、2月5日慶喜は春嶽に対し、はじめて朝廷に謝罪する意思を表明している。

 □ 新政府の側はといえば、2月2日、西郷は大久保宛への手紙で、「慶喜退隠の嘆願、甚だもって不届千万、ぜひ切腹」と記しており、多分に東征軍の士気を鼓舞するための擬態であるとも考えられるが、「戦犯」を作らずに、革命戦争は終わらないとする、革命の生理の然らしむところであるとみることもできる。「生煮え」の状態で済ませ、その挙句に反革命の種を残すことを何としても防ぎたかったのではなかろうか。

 □ 2月3日天皇は親征の詔を発し、2月9日総裁熾仁親王(有栖川宮)が東征大総督に任ぜられ、東海、東山、北陸3道の軍隊を掌握するに至る。

 □ 慶喜は2月11日、家臣に対し沙汰書を発し、過ぐる鳥羽伏見の戦において、
「計らずも朝敵の名を蒙るに到りて、今また辞なし。ひとえに天裁を仰ぎて、従来の落ち度を謝せん。かつ臣ら憤激その謂われなきにあらずといえども、一戦結びて解けざるに到らば、インド・シナの覆轍に落ち入り、皇国瓦解し、万民塗炭に陥入らしむるに忍びず。」
と述べて家臣の鎮撫につとめている。
 2月12日、慶喜は上野寛永寺に入り、恭順・謹慎を開始した。

 □ 2月21日京都を進発した官軍(東海道支隊)は、3月12日品川に至った。
 同日、徳川側の謝罪状は全て東征大総督を経由すべき旨の沙汰書きが下る。これにより、慶喜の処分は総督府が握ることとなった。

 □ 2月26日、静寛院が慶喜の嘆願書を受け取ったことを知った大久保は、国元への手紙で
「あほらしさ沙汰の限りに御座候。反状顕然、朝敵たるをもって親征とまで相決せられ候を、退隠くらいをもって謝罪などとますます愚弄奉るの甚だしきに御座候」
と述べている。

 □ 東海道を順調に進む官軍は着々と江戸に迫り、3月6日、江戸城総攻撃の日時が3月15日と発表された。

 江戸城明渡交渉

 □ 折柄慶喜の身辺警護にあたっていたのは遊撃隊(長:旗本高橋泥舟)と精鋭隊(長:旗本山岡鉄舟・中城金之助)であったが、山岡は勝邸を訪れて勝と面会、自らが駿府に赴き新政府軍側との折衝を試みたいと申し出る。
 3月6日山岡は薩摩脱藩藩士益満休之助(勝海舟の預かりとなっていた)を伴って江戸を出立し、9日駿府に入り、東征大総督参謀西郷隆盛に対し、慶喜には恭順の気持ちがあるが、「不教の民、我が主の意を解せず・・・小臣鎮撫力殆ど尽き手を下すの道無く・・・それにつけても一旦暴発するにあっては静寛院宮の身辺の安全も保障のかぎりでない」旨、取りなし方を依頼する勝の書状を手渡すのである。

 □ 西郷は大総督に意見を照会した上で作成した7箇条の和解案を山岡に示したが、その内に、慶喜を備前藩御預けとする条件が含まれており、家臣として呑むことは不可能と強硬に抗議、西郷はその修正を請合い、山岡は直ちに帰府、勝に経緯を報じた。

 □ 3月13日、西郷は芝高輪の薩摩屋敷に入り、同所に勝が赴いて会談。翌14日に渉って交渉を継続した。
 勝は要旨下記の如く修正を要求する。
一、慶喜は実家の水戸において謹慎とすること。
二、江戸城を新政府軍に明け渡すが、その後は田安慶頼に預けとすること(預け先を特定)。
三、軍艦、兵器は残らず取まとめ、追って新政府軍に引き渡すこと。
四、城内居住の徳川家家臣を向島に移転(西郷側の提案)させるのではなく、城外に移動して謹慎とすること
五、鳥羽伏見戦争に関与した者に対しては格別の憐愍をもって、死罪は宥されたいこと
六、ただし、この条件で開城に及び、万一暴挙に及ぶ者あらば、新政府軍の力をもって鎮圧せられたいこと。

 □ 西郷は勝の修正の趣旨を容れることを約し、ただちに東海・東山二道の先鋒総督府に対し、翌日の江戸進撃中止を命じた。
 そして東海道経由で20日に京都に上って新政府の合意をとりつけ、25日大総督のいる駿府に戻った。
 そして勅使が江戸城に入城するのが4月4日、11日を期限として処置すべき旨を達し、7日慶喜は請書を提出、9日静寛院宮は清水邸へ、10日天璋院(篤姫。13代将軍家重の妻。薩摩藩出身)は一橋邸へ移り、11日江戸城が明け渡された(城の預け先は御三家の一つである尾張藩とされた)。

 □ 少し遡るが、これに先立つ3月3日、東征軍参謀の木梨精一郎が、12日後に予定される江戸城攻撃に伴う傷病者のため英国病院を利用することを要請するためパークスを訪れた。
 パークスは席上慶喜に対する新政府の処遇の問題を持ち出して、「恭順・謹慎している慶喜を死罪にするのは人道に反する。慶喜が亡命を望めばこれを受け容れるのは国際公法上当然の行為である」として、新政府の仕打ちに反撥した。想像ではあるが慶喜からパークスに根回しが行き届いていたのではなかろうか。
 仰天した木梨は急ぎ大総督府に戻り、これを西郷に報告したが、このことが慶喜の処遇に影響していると思われる。

 □ 4月11日、江戸城が明け渡され、慶喜は江戸を退去し、謹慎地の水戸へ向かう。

 □ 以上の過程を経て江戸幕府は瓦解した。以下の数章を以って、幕府の終焉に重要な影響をもたらした論点を、徳川慶喜の行動ないし政治的決断を中心に少し立ち入って補遺の形で述べてみたい。





羽織袴姿の徳川慶喜
撮影者:フレデリック・サットン
撮影地:大坂城内
撮影年:慶応3(1867)年3月29日(慶喜30歳)
画像:132×92

 【補遺1】担ぎ出されて就職した将軍後見職

 □ 慶喜は将軍(家定)の後嗣問題で徳川慶福(家茂)と争う形で政治の舞台に登場した(結果この争いには敗れる)が、それが第三者の運動によったのと同様、将軍後見職への就職も、必ずしも主体的行動によるものではなかった。薩摩藩と朝廷の圧力のもと、気がつけば、将軍後見職にされていたのである。

 □ 徳川慶喜は安政6(1859)年8月27日、さきに井伊大老が行った「無勅開国」に抗議して不時登城を行い、幕府から謹慎処分を受けていたが、万延元(1860)年3月桜田門外の変が勃発し、井伊大老が殺害されるに及んで幕権凋落の反動としての公武合体の動きが生まれ(和宮降嫁等)、破約攘夷論(外国との条約の破棄と、10年以内に鎖国体制に復旧すること)等、激動の中で世状は騒然とし、長州、薩摩だけでなく、各地に政治に不満を唱える声が上がった。

 □ こうした中で、藩論を破約攘夷へと転換した長州藩に遅れてはならじとばかり、薩摩藩にも大きな動きが生じた。久光は藩論の大勢に必ずしも従わない形で文久2(1862)年3月、藩兵1000名を率いて上洛し、10に余る建言を開陳した。
 その中に、松平慶永(春嶽)に大老を仰せつけられ、「将軍(家茂)未だ若年なるは非常の時節、御懸念思召され候間、一橋に後見仰付けられ・・・」云々として、慶喜を将軍後見職に就かせる趣旨の提案が入っており、紆余曲折ののち7月1日、将軍家茂は、慶永に政事総裁職を、慶喜に将軍後見職を仰付けた(慶喜の謹慎は幕閣が政事の動きに機敏に反応したことに伴い、翌4月に解除されていた)。

 □ このように一橋慶喜の将軍後見職と松平慶永の政事総裁職はその成立過程から見て微妙であった。後見職・総裁職の就任の経緯は早い話、老中らが勅旨を背にした大原重徳と久光の脅しに屈したものであり、老中以下の官僚グループはもともと後見職の設置に反対であった。
 それゆえ慶喜に対する幕閣の態度に些か面従腹背的なところがあったことは否めない。

 □ 慶喜自身、4月13日にようやく幕府から謹慎を解かれたばかりであり、久光や朝廷(大原重徳ら)の勧めをいったん辞退した揚げ句、7月6日に後見職を引き受けたとなれば、幕閣内にその地歩は固まっていたとはいえなかった。そのうえ後見職・総裁職は大老でも閣老でもない。幕閣は機密にわたる事項については口を噤むのである。慶喜と慶永は京都辺りの期待と現実との板挟みにあった。
 定めし住み心地が悪かったに相違ない。

 □ 但しその後文久2(1862)年閏8月に幕閣は慶喜のもとに大評定を開き、軍備の充実を中心とする幕政の大改革に着手し(文久の改革)、一定の効果を挙げた。

 【補遺2】京都への定住後、慶喜の動きが活発化する

 □ 慶喜は文久3(1863)年1月初めて参内して孝明天皇に拝謁し(次いで家茂将軍も3月に上京、6月まで在京)、いったん破約攘夷実行のためとして江戸に下ったが、8月に京都に政変(8.18政変=文久政変)が生じたため再び上洛する(この時期以来、敗戦帰城するまで、慶喜は江戸城で執務することはない)。

 □ 京都に常駐するようになってから慶喜は活動を本格化させる。12月には朝廷参与に、翌元治元(1864)年3月には参与を辞し、将軍後見職を免ぜられ、朝廷禁裏守衛総督に任ぜられた(その後間もなく7月に禁門の変が勃発し、慶喜は御所警備の実兵指揮を執った)。このような動きの中に慶喜の朝廷への傾斜は強まり、孝明天皇の信頼の篤い会津藩とも親密なつながりを持つに至る。
 慶喜の母は登美宮吉子といい、公卿の出身であり、父の斉昭は水戸学に造詣が深く、ともに尊皇思想への親和性が強かったことも与って京都指向に抵抗を感じなかったであろう。

 □ 江戸にいる時分は慶喜は、老中幕府諸役人等の父斉昭に対する反撥の余波を受け、多分に幕閣に遠慮があった。
 しかし京都にやってきてから以後の慶喜には、そうした遠慮が後ろに退き、彼本来の主体的な動きが見られ始めるように思われる。(家近『江戸幕府崩壊』末尾参考文献参照)

 【補遺3】江戸と京都に2つの幕閣が生まれた。  

 □ 上述の通り家茂将軍は文久3年3月に上洛し、6月に退京するまで孝明天皇から、長く京都にとどまり警護にあたることを要請され、また攘夷の督促を受けつづけ、5月10日を攘夷決行日として受け入れるなど(4月20日)、攘夷を拒否できなくなる(それゆえ、江戸の幕閣の中には将軍が上洛したのは戦略的には失敗であったとの見方があった)。 

 □ 朝廷は前年文久2年12月には国事御用掛、文久3年2月には国事参政と国事寄人の、都合3つの機関を設置し、更に10万石以上の大名に禁裏御守衛の親兵を供出するよう命じるなど、積極的に動くのである。

 □ こうして国政は「京都の幕閣」と「江戸の幕閣」の2つの政策拠点を持つに至る。
 京都では、滞在中の将軍以下諸役人が、いや応なしに孝明天皇の攘夷意思を尊重することを余儀なくされた。ところが、江戸の老中や諸役人は日常的に欧米人と接触して、その実力を知悉しているから、とうてい通商条約の破棄などできないと考えていた。
 そのため文久3年5月8日に慶喜が東帰し、翌日徳川慶篤(水戸藩主)とともに登城して、破約攘夷の勅旨を伝達した際、江戸の老中・諸役人によって拒絶されるのである。

 □ また、それだけにとどまらず、やがて老中格の小笠原長行をして、京都政界から過激な攘夷派を排除するために、京都におもむくことを決断させ、実行させるに至る。これには江戸の老中・諸役人中の有志の熱烈な支持が寄せられたが、京都に滞在していた将軍や老中の承認を得るどころか、まったく彼らには知らされていなかった。ここに文久3年当時、幕府が置かれるようになった二極化の実態を看取することができる。
 小笠原は6月1日に大阪に到着し(率兵下坂)、ただちに上洛をめざすが、「京都の幕閣」および京都守護職の松平容保などの反対にあって失敗し、6月9日に小笠原は朝命によって罷免される。幕府上級官僚の人事が朝命の介入によって行われたことは特筆されるべきであろう(もっとも小笠原は後に慶応元年9月4日、老中格にカムバック、10月9日老中に昇進し、第二次長州戦争の小倉戦線に参加している)。

 【補遺4】自前の家臣団を持たない将軍

 □ 慶喜は御三家である水戸藩主徳川斉昭の七男として江戸に生まれ水戸へ引きとられて養育されるが、11歳で御三卿の一橋家を相続し(水戸徳川家は嗣子慶篤が継いだ)、そのため慶喜以外の歴代将軍が囲まれていた股肱の臣と目すべき直属の家臣団を欠いていた。

 □ 余談にわたるが、一橋家の家臣は幕府より附属されたいわば飾りものにすぎず、慶喜の飛躍のためには気心の知れた者を必要とした。慶喜は、文久3年初上洛の際、原市之進、梅沢孫太郎、梶清次右衛門等、後に懐刀として活躍する面々を水戸家から「借用」したいとして、申受けている。
 こうした腹心の家臣団を欠く環境は、慶喜が将軍後見役及び将軍職を務めるにあたって大きな影響を及ぼした。

 □ 慶喜は若い頃から英邁を以って将来を期待されていたがそれはそれとして、老中や官僚プロセスによって形成される政策を実現するタイプの政治家には成長してゆかず、彼は自らの政治的能力に依存して、当面する問題を時局に応じて処理する将軍となろうと自負し、そして失敗するのである。

 □ 上述の通り、慶喜は京都に軸足を移して以来、徳川幕府に無二の忠誠を誓うのではなく、「妥協的、依他的、中間的な政治家」たらしめ、幕府を自身の肉体のごとく愛する他の将軍と自分とを異ならせたのである。慶喜が、幕府、あるいは幕閣と心中するほどの熱意をもち得ないとしても、これはむしろ当然だとさえいえるだろう。」(田中惣五郎『最後の将軍徳川慶喜』(末尾参考文献参照))

 □ こうしてみると慶喜が周囲からの大政奉還の提言にさしたる抵抗なく理解を示したのも、徳川家に対する執着心の薄さの然らしむるところと解すれば首肯しうるというべきであろう。

 【補遺5】慶喜の「変節病」ないし「ドカン病」

 □ 慶喜は或物事を推進するにあたり、事前に周到な根まわしをして関係者の了解をある程度取り付けてから、自分の考えを表明するといったことが、まったくできない、と家近『江戸幕府崩壊』は述べ、このような挙動を「ドカン病」と評している(本稿においてもこの語を借用させていただく)。また根廻しなしに前言を翻すことを『合本戊辰戦争史』(巻末参考資料、野口『鳥羽伏見の戦い』による)は「変節病」と呼んでいる。人を唖然茫然とさせる点ではおなじようなことである。
 もっとも"ドカン病"はひとり慶喜だけの病ではなく、現代でもシンクタンクから大企業へと天下った経営者に時折その例をみることができる。

 □ 大坂城撤退に際し、慶喜の"ドカン病"の弊は遺憾なく発揮されたことは既述の通りであるが、実は本人には同じような前歴がある。

<征長軍直率の大見得>

 □ 話は遡る。第2次長州戦争における幕府軍の敗報が続いていた時分のことであるが、小倉口(北九州)の戦線に異変が起きていた。慶応2年7月27日に九州に上陸した長州勢は小倉、熊本の幕府勢の力戦で下関に撤退したのであるが、7月30日幕府の熊本勢も突如撤退をはじめた。軍監の小笠原長行も、30日軍艦にて長崎に退去した。
 この動きは7月20日に将軍家茂が大坂城において死去したことに連動する。この秘報に接した小笠原の突然の撤退により戦線は総崩れとなり、矢面に立っていた小倉藩は小倉城を自焼して香(か)春(わら)の地へ退いた。

 □ 慶喜は各戦線から連敗の報を受け、敗戦の原因は作戦指導に統一を欠いていることにあると判断し、自らが強力な指導を行うことにより頽勢挽回がまだ可能だ、と考えた。
 折から家茂が陣中において死去した後をうけて、慶喜は死去直後の老中および会桑の会議で宗家相続を受けたものの将軍襲位については態度を留保し、諸侯合同して政治を行うのは後回しにして、まずは将軍の喪を秘し、自らが名代と成って長州征伐に出征すると主張した。

 □ 結局この主張が通り、28日、幕府は家茂の名をもって(家茂の生存を装って)、「将軍万一の場合には、慶喜を継嗣とし、名代として征長の役に出陣させたい」と奏上し、8月4日、慶喜は参内し、当日の朝議において出征の所信を力説し、天皇もこれに同意した。この朝議を踏まえ、8日、慶喜は参内して出陣の暇乞をおこない、天皇は追討の成功を望む旨の勅語を下し、節刀(出征する将軍に与えられる刀)を下賜したのであった。

 □ そしてその直後である慶応2年(1866)8月11日、慶喜は、旗本一同を集めて、
「毛利大膳父子は君父の讐なり。此度おのれ出陣するからは、たとい千騎が一騎になるとも、山口城まで侵入して戦を決する覚悟なり。その方共も余と同じ決心ならば随従すべし。その覚悟なきにおいては随従に及ばず」(「徳川慶喜公伝」第22章)
と大見得を切った。何処かで聞いたことがあると言う読者もおられると思うが、その1年5ヵ月後の慶応4年1月5日に、大坂城撤退を秘して家臣を欺くために行った大演説とトーンが似ているのである(既述の演説を参照されたい)。

 □ しかしながら、8月11日、小倉落城、小笠原長行敗走、諸藩兵小倉退去の急報が京地に達した。弛緩した各戦線への指導強化で事態が改善されるという前提自体が、九州戦線崩壊により失われてしまった。

 □ 当初の予定では慶喜は12日に出陣するはずだったのに、8月13日になってもいっこうに陣触れがない。こうした緩慢な動きは徐々に噂となって広がり、大将が怯んでいると聞いて激高した会津藩士は、「小倉落城の体に候ともこれは瑣々たる儀、すでに節刀を賜り、速やかに追討の功を奏し候様の勅諭もあらせられ候ほどの一大件を(九州小倉云々などとて)御延引に相成り候ては、もはや幕威はこれなきものなり」と松平容保を猛然と突き上げる。桑名藩でも藩士が興奮して松平定敬に詰め寄る騒ぎになった。

 □ 8月14日、慶喜は二条関白・賀陽宮(尹宮)を通じて止戦の勅書を願い出た。無責任も甚だしいと宮廷中が呆れ果てた。孝明天皇も「殊の外御気色」で、顔色を変えて怒り、慶喜の内願を突き返せと命じた。
 8月15日に開かれた朝議は索然たる雰囲気になり、いわば経過報告をしただけで何も決めず散会した。

 □ 8月16日、慶喜は老中板倉伊賀守を連れて参内し、御前評定の席で解兵の旨を陳弁した。二条関白や賀陽宮による意地悪い質疑に対し、しまいに開き直って、九州の敗報は自然災害のように予測不能だったから仕方がない、自分では不足だろうから将軍職の襲位は辞退する。誰か他に適任者を探してくれと開き直った。孝明天皇は不快をあらわにし、他方幕府官僚やパートナーの会津藩の反対も強烈で、慶喜に対する憎しみから「一会桑」の同盟関係は一気に崩壊したことについては以前にも触れた(本誌40号)。

 □ しかし朝廷が恐れていたのは権力の空白状態(7月26日慶喜が徳川宗家の相続を了承した後、将軍に襲位した12月5日までの間をいう)であった。
 しかしこの難局を処理できるのは今のところ慶喜しか見当たらない。慶喜もそれを承知で将軍襲位の辞退などというのである。朝廷は立腹しながらも、止戦に持ち込む方針は固まり、結局慶喜の勝手な言い分を聞き入れる他はなかった。

 <"ドカン病"は敵を作る>

 □ ともあれこうした政治家であったがゆえに、慶喜の「ドカン病」的な体質は相手方の無用の反撥をもたらす原因となった。
 例えば彼は兵庫開港をめぐる条約勅許の件について、朝議が開かれた折(慶応元年10月)、並入る公卿を相手に熱弁を振るい、衆議をまとめたことに表われている(本誌38号参照)。
 従来であれば幕府の政策を批判する場合、将軍の下にあって間違った政策を採用しているのは老中や諸役人(君側の奸)だとして、彼らに攻撃の矛策を向けることができた(将軍の側にも老中に責任を負わせ言い逃れることができた)のであるが、慶喜が政局を独占してしまうが故に、そうはいかなくなる。自分らを言い負かした本人に直接怨嗟の鉾先を向けてしまうのである。

 □ 後に慶応3年5月24日、兵庫開港が成ったとき(このときも慶喜は朝議を一昼夜にわたりリードし、兵庫開港を勝ちとった(本誌41号参照))、在京薩摩藩指導者らは反対の烽火をあげる。
 徳川慶喜の脅迫にも等しい強い要請のもと、兵庫開港が勅許をみたとして、「大樹(=将軍)独り朝廷へ迫り奉り、朝廷の思し召しにもこれ無き開港を無理に勅許せり」との非難が、薩摩藩有志の間に巻き起こる。これが薩摩と幕府の仲を悪くし、薩摩を反幕へ向かわせる重要なモメントになる。

(未完)


<イラスト制作>高橋亜希子
<参考文献>
・野口武彦『幕府歩兵隊―幕府を駆けぬけた兵士集団』(中公新書、2002)
・野口武彦『長州戦争―幕府瓦解への岐路』(中公新書、2006)
・野口武彦『鳥羽伏見の戦い-幕府の命運を決した四日間』(中公新書、2010)
・家近良樹『江戸幕府崩壊―孝明天皇と『一会桑』(講談社学術文庫、2014)
・田中惣五郎『最後の将軍徳川慶喜』(中公文庫、1997)
・鈴木庄一『明治維新の正体―徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ』(毎日ワンズ、2019)
・松原隆文『最後の将軍徳川慶喜の苦悩』(湘南社、2019)
・保谷徹『戊辰戦争』(戦争の日本史8 吉川弘文館、2007)

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