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弁護士 堤 淳一

2025年02月14日

太平洋の覇権(39)-----アメリカの太平洋進出及び日露戦争

(丸の内中央法律事務所報No.46, 2025.1.1)

 はじめに

 □ 北米大陸の東海岸にあってイギリスの支配の仕方に抵抗して独立を宣言した、province,colony, dominationなどと呼ばれた13の「植民地」が、その名もstatesに統一してUnited States of Americaを形成しつつ、西へ西へと勢力を伸ばし、やがて太平洋岸にまで達した経過については、当事務所の事務所報28号「太平洋の覇権(23)」から33号同(28)にかけて詳述したとおりである。
 しかし、随分前の本誌の連載を参照していただくのも大儀であろうゆえ、以下にこの間の事情を略述することにさせていただく。

 アメリカの膨張

 □ 1776年アメリカは独立を宣言し、前後8年にわたるイギリスとの激しい戦争の末、大西洋沿岸に漸く独立を果たした(イギリスは1783年パリ条約によりアメリカの独立を承認した)。13の「州」stateから成るアメリカ合衆国はその後西へ向かい、次々にその数をふやしつつ膨張を続けた。このアメリカの西漸の動きはアメリカ大陸を既に支配している列強との相剋の中で進められた。折柄ヨーロッパの辺境にあったロシアは逆に東漸の動きを示し、ベーリング海峡を渡って北アメリカ大陸(アラスカ)へと達していたが、アメリカの動きはロシアがほとんど無人の凍土を進んでいったのとは対照的である。

 □ やがてフランス革命(1789年)、ナポレオンの皇帝襲位(1804年)等々がヨーロッパにおける政治状況の変転を彩る間、1803年にアメリカはフランスからルイジアナ地方(それまでの領土に匹敵する)を僅かな金額(1エーカー3セント)で譲渡を受けて版図を拡大し、西漸の動きに弾みをつけた。

 □ その後ナポレオン戦争下において中立を保っていたアメリカの対フランス通商をイギリスが妨害したことに端を発し、アメリカは、カナダ(イギリス領)への進攻をはじめた(1812年)。ナポレオンの追放(1814年)により、フランスの圧迫から解放されたイギリスは、アメリカとの戦いを有利に運び得るであろうと観測したが、アメリカ軍の戦術的失敗にもかかわらず、アメリカ領土への進攻は不首尾に終わり、他方アメリカによるカナダへの侵攻も不成功に終わり、第2次独立戦争と呼ばれたこの戦いは1815年に終結した。

 南の国境線

 □ ナポレオン政権の崩壊によりアメリカの西部へ向かう意欲はいっそう高まった。スペインにおいてはブルボン王家が衰退し、植民地を含む支配領域の治安の維持に問題を生じ、住民であったアメリカ人の権益を守り切れなかったスペイン領フロリダをアメリカに譲る話し合いが行われ、これをきっかけに、米西両国間に取引がまとまった

 □ 即ち、スペインはフロリダを手放し、その見返りとしてアメリカは500万ドルを支払う。アメリカはフロリダの西にあってメキシコ湾に面するテキサスの領有権の主張を全面的に放棄する。米西国境をサビーン川からレッド川を北上し、北緯42度に定める(アダム・オニス線)とするものであった(大陸横断条約)。1819年2月のことである。こうしてアメリカは遂に太平洋に達した。

 北の国境線

 □ オレゴンテリトリーと呼ばれる北西の辺境は、スペイン、ロシア、イギリスとアメリカの利害が錯綜して、混沌とし、この地域をアメリカの領土であるとする主張はなかなか通らなかった。

 □ ルイジアナ地方の西側にロッキー山脈が聳え立っている。1818年10月、ロンドンで調印された協定を以って北辺の境界は北緯49度にすることが取り決められていたが、この線は西に延ばすとロッキー山脈に阻まれて行きどまりになり、アメリカ北西端境界(オレゴン地域)については追って協議することとされていた。しかしその後紆余曲折あってオレゴン協定がイギリスとの間に調印され(1846年6月)、北辺における境界は北緯49度線の延長線上に確定された。

 カリフォルニア

 □ その頃スペインはメキシコとの戦争に携わっていたが、メキシコはスペインとの11年間にわたる戦争のあと1821年に独立した。その勢いをかってメキシコはテキサスを手中に収めた(その後この地域は一時テキサス共和国として独立したが、1845年に住民意識が高まり、アメリカ合衆国へ加盟した)。

 □ アメリカはルイジアナ地方を手に入れた後、ロッキー山脈の西の地域とカリフォルニアを含むスペイン領(後にメキシコ領となる)を手に入れたいものと長年渇望していた。アメリカの本意は、アメリカ大陸とアジアを結ぶ太平洋グレートサークル・ルート(大圏航路)に参入し、支那との交易を拡大することにあり、そのためには何としてもカリフォルニアを領有し、サンフランシスコを母港として蒸気船による太平洋航路を構築したかった。

 メキシコとの戦争

 □ フランスやイギリスはメキシコからカリフォルニアを奪取する意図を隠して、メキシコを支援するポーズをとっていた。

 □ ポーク大統領(就任期間1845-49)は、就任から8か月後の1845年11月、メキシコとの間にカリフォルニア買収交渉を行う一方、カリフォルニアがメキシコから独立する運動を蔭で支援していたが、1846年6月、サクラメント川流域のアメリカ人入植者およそ30人がカリフォルニアの独立を要求し、メキシコ軍の砦を陥とし、カリフォルニア共和国として独立を宣言した。

 □ かくしてアメリカのカリフォルニア買収の意図は頓挫し、ポーク大統領は暫らくメキシコ湾から海軍による軍事的威嚇を続ける姿勢をとっていたが、リオグランデ川付近に展開中のアメリカ軍偵察部隊(陸兵)が1846年4月、メキシコ軍に襲撃された。それまで開戦に慎重だったアメリカ議会も、1846年5月メキシコに宣戦することを決議した(米墨戦争)。カリフォルニア共和国はたちまち崩壊し、アメリカ軍は進撃を続け、9月14日にはメキシコシティーを陥した。

 □ メキシコは外交交渉を決意し、1848年2月、ついにメキシコシティで合意(グアダルーペ・イダルゴ条約)が成立する。 メキシコはアメリカにテキサスを割譲し、アメリカはその補償として、メキシコに1500万ドルを支払い、かねてテキサス州民がメキシコ政府に補償として要求していた300万ドルの債務を肩代わりして引き受けるという、都合1800万ドルを出捐するというものであった。
 メキシコの譲歩はと言えば、メキシコとテキサス州の国境を、ヌエセス川から西のリオグランデ川とすること、及びカリフォルニア及びその周辺の土地をアメリカに譲渡することであった。この結果メキシコは国土のおよそ半分を失った。

 □ 以上の結果、アメリカは太平洋側においてヴァンクーバのピュージェット湾からサンディエゴまでの全域を支配するに至った(第1図「アメリカの版図の確定(1850年代)を参照)。

【第1図】アメリカの版図の確定(1850年代)_04.jpg【第1図】アメリカの版図の確定(1850年代)

 
ゴールドラッシュ

 □ グアダルーペ=イダルゴ条約が調印されるちょうど1週間前、サクラメント北東のサッターズミルで金鉱が発見された。1848年1月24日の朝のことだとされている。カリフォルニアのサクラメント川とアメリカン川の2つの川が合流する地点に4800エーカー程の土地を10年程前にメキシコから払い下げを受けていた1人の男が金鉱石を発見した。この報は忽ちカリフォルニア全土は言うに及ばず、忽ちハワイ、南米へと伝わり、各地からの出稼ぎやメキシコからの移民を引き寄せ、1852年頃にはカリフォルニアの人口は26万人(原住民を除く)に達すると思われる大移動(1848年頃の白人人口は500人程度)をもたらした。
 ポーク大統領は議会で黄金の発見を報告し、カリフォルニアの黄金でメキシコとの戦費の10倍をまかなえるとご機嫌であった。

 □ 上述の通り、グアダルーペ=イダルゴ条約が締結されたのが、2月2日、カリフォルニアで金鉱が発見されたのが1月24日とされている。もしメキシコが金発見のニュースをグアダルーペ=イダルゴ条約締結よりも前に知っていたら、歴史は変わっていたかもしれない。ポーク大統領はこのことを思い起こすとき自分の好運を噛みしめたことであろう。

 □ ところでポーク大統領が大統領に就任する1845年、時を同じくしてジョン・オサリバンという人物がイギリスとの間に当時続いていたオレゴンカントリー論争に関連し、アメリカがオレゴンを領有すべきことは「我々の明白な使命の権利によるものである」とする論文を発表した。民主党が「マニフェスト=ディスティニー」の言葉を政策文書取り込んだことにより大いに広まり(1)、ポーク大統領(民主党)もこの考えに同感した。アメリカ太平洋沿岸の開発が、辺境領土の拡張、金の発見、パナマ航路の啓開、移民による人口の増加(移民を含む)へと進む状況はマニフェストディスティニーが予言しているかのようであった。



【第2図】ジョン・ガスト「アメリカの進歩」.jpg

【第2図】 ジョン・ガスト「アメリカの進歩」American Progress(1872)
  空中に浮かんでいる女性像は、合衆国の擬人化である"コロンビア"だとされており、
  彼女に導かれるように西へ向かう3本の鉄道と多くの開拓民が描かれている。
  コロンビアの右手に抱えられているのは学問と科学の進歩を示す手引書と、
  折柄開発された電信のワイヤーである。


 南北戦争

 □ ところでアメリカが次第に力をつけてゆく中において、国内に亀裂が生じた。北部の商工業者と南部の綿花栽培を基盤とする人々との対立が深刻となり、1861年に南北戦争が勃発したのである。リンカーン大統領(在任1861-65共和党)が戦争中に発表した奴隷解放宣言(1863年)は南北両軍に大きな影響を与えた。

 □ 1861年、連邦側のサムター要塞を巡って発生した砲撃戦をきっかけに4年にわたって南北両軍の間に戦われた南北戦争(当時34州の内、南部11州が連邦を脱して独立を宣言)は1865(慶応元)年4月9日、南軍がアポマトックスにおいて北軍のグラント将軍(後に合衆国大統領となる)に降伏し、事実上終結した。 南北戦争は4年にわたり両軍合わせて動員兵力420万人、戦死者62万人(北軍36万人、南軍26万人)という大戦争(数字には異説がある)であった。

 □ ところでその数年前日本は開国し、1858年(安政5年)に、英、米、仏、露国らとの間に通商条約を結んだ。アメリカはこれら諸国の先頭をきって対日外交を推進できる立場にあったが、南北戦争の勃発によって対日外交にかまけてはいられなくなり、以後アメリカは対日外交の主役の立場を失ってゆく。

 □ 序でに言えば、この間、アメリカでは当時の国際的水準に照らし最も性能の高い小銃が大量に生産された。南北戦争の終戦により余剰となった小銃が、清国の上海あたりへ大量に出回り、日本へも密輸入され、日本に生じていた内戦の戦術に大きな影響を与えた。もっとも世界的には銃身にライフル(施条)のない密輸品(ゲーベル銃)は既に後装式連発銃(スペンサー銃)にとって代わられており、薩長勢が密輸入した銃のうちには中古品を高く買わされた体のものが大分混ざっていたようである。

 □ 南北戦争はアメリカの資本主義が、改めて連邦へ組み込み直された南部諸州を包摂しつつ、単一の広大な内部国内市場の形成に役立つ結果となり、これを基盤にしたアメリカが全大陸規模で発展することを可能とした。

 アメリカのフィリピン領有

 □ アメリカの「裏庭」と呼ばれたカリブ海に残っていたスペイン植民地キューバは1895年以来スペインとの間に独立戦争を戦っていた。この動きを注視していたアメリカ政府は、国内の親キューバ世論、貿易上の利害、そしてハバナ港でのアメリカ軍艦撃沈事件などをきっかけに、1898年春以降軍事介入をはじめ、これがスペインとの本格的戦争へと拡大し(米西戦争)、短期間の戦闘でキューバはスペインから「解放」された。

 □ 同じくスペインの植民地だったフィリピンでも同年8月には米軍がマニラを占領、敗れたスペインは講和を求め、休戦協定が結ばれた。
 同年12月のパリ講和条約により、スペインはキューバを放棄して独立を認め、かつプエルトリコ、グアム、フィリピンをアメリカに割譲、アメリカは太平洋を横断して、中国進出の足場をつかんだのである。
 なお1893年にアメリカ人が王国を転覆して統治していたハワイも太平洋の中継地としての重要性が再認識され、1898年にアメリカ領へ併合されている(【第3図】太平洋のアメリカ領参照)。

【第3図】太平洋におけるアメリカ領_02.jpg

【第3図】太平洋のアメリカ領



 □ フィリピン領有に関しては、アメリカ国内に「割に合わない」(植民地保有コストがかかりすぎ、対支那投資による利益が思うようには見込まれない等)とする異論があったが、この地域を領有することは、アメリカの「明白な責務」であるとの議論に押し切られてしまう。しかし長年にわたるスペインの支配から脱却しようと1896年以来戦ってきたフィリピン人にしてみるとアメリカによる領有は宗主国の変更をもたらすのみで何の益するところはなく到底受け入れられるものではない。アメリカ軍に抵抗して戦争状態に入る(米比戦争)が、1902年には戦闘は終熄し、アメリカはフィリピンを領有するに至る。この間、民間人を含めると20万を超えるフィリピン人が殺されたという。
 アメリカはゲリラ戦を継続しつつ、本格的な植民地支配をはじめる。

 門戸開放政策

 □ かねてから支那に市場を求めたいと念願していたアメリカは、何とかしてフィリピンを、支那市場へ進出する足掛りとしたいと目論む。しかし支那大陸は既にヨーロッパ列強による進出が進んでおり、そこに新たに乗り込むのは出遅れ感を免れない。そこで国務長官ジョン・ヘイ(在職1898-1905)は、1899年と1900年の2回にわたって門戸開放通牒を発した。即ち支那大陸の領土の分割競争に割り込もうとするのではなく、その代わり列強(ロシア、イギリス、フランス、ドイツ等)が支配している領域において自由に交易できることを保障するよう求める門戸開放政策を提案したのである。列強がお互いに領土的進出によらず、経済的進出によって他国に優越し、自国の権益を拡大しようとする門戸開放政策は植民地後発国としてのアメリカにとって好都合であると考えられ、これ以降、アメリカ外交の基調となっていく。

 □ 門戸開放政策は列強諸国のひとしく唱えているところであり、日本もその例にもれず表面的には門戸開放政策をとっていた。

 日本の開国とアメリカ

 □ 話は遡る。アメリカ(フィルモア大統領(在職1850-1853)が1853年ペリー提督の艦隊を日本に派遣し、日本の鎖国政策を終わらせ、1854年にアメリカ(及び英露の3国)との間に通商が開かれた(安政和親条約)とき以来、日米両国は友好関係を維持し、徳川幕府も日米条約批准のためアメリカに使節団を派遣して(1860年)国交を篤(あつ)くし、その後幕府が倒れ、1868年に明治維新が成立した後の話になるが、アメリカを訪れた新政府の岩倉使節団は大歓迎を受けた(1871年)。 日米間の交易は徐々に増加の一途をたどった。アメリカ国民は日ましに西欧化していく日本国民に親近感をいだき、両国民はたがいに相手国民を尊敬していたかにみえる。

 □ ところが万事好都合というわけにはゆかない。カリフォルニアの日系移民に対する人種差別の動きが生じ、日米関係に軋轢が生じた。
 1891年から1906年の間に数千人の日本人移民がカリフォルニアに渡った。既述したゴールドラッシュがカリフォルニアに生じたことが主因であったが、それのみが要因とはいえない。日本の移民政策に関係がある。
 日本人移民の増加に対し地元の人種差別意識の強い白人たちは、日本人の入国を阻止するため、日本人移民者を、根拠もなしに「不道徳、不節制、喧嘩好きで、はした金でも働く輩(やから)」ときめつけ、周囲の人々を煽動した。サンフランシスコ市内でも日本人に対する暴行や露骨な嫌がらせが行われた。スペインという敵が消えて日本人が新たな敵として狙われることになったという恰好である。すでに中国人移民の数は減少し、アメリカ西海岸への移民の主役は日系人になっていた。

 極東における動き―特に朝鮮半島について

 □ ところで極東に眼を転ずると、日本が開国し列強との競争に否応なく巻き込まれて行く中で、ロシア帝国が常に脅威として日本の前に立ちはだかった。西の辺境から東漸の動きを示したロシアは不凍港を欲し南下政策へと変化した。
 ロシアは満州を手中にし、朝鮮を併呑し、やがて日本海を渡って日本へと押し寄せるに違いない、と日本の政府は推測、世論もこれに同調した(恐露論)。その意味で朝鮮を強い影響下に置き、日本の防波堤にできるか否かは外交(軍事を含む)上の死活問題となった。

 □ 日本は征韓論以来、朝鮮との関係について深く関与し、朝鮮王朝の内訌に、清国と対立する形で介入し、日清戦争(1814年)に勝利して次第に朝鮮王朝に強い影響力(韓国保護権)を持つに至っていた。ロシアも、渋々であるにせよ朝鮮に対する日本の商工業上の優位性を認めざるをえなかった。

 □ 清国においては外国列強に対する反感が反キリスト教運動に収斂され、1900年初頭義和団事件が勃発した。義和団事件は清国と列強諸国との戦争に発展し、列国の連合軍(英、仏、米、独、墺、日)によって鎮圧されるのであるが、その後もロシアは義和団鎮圧活動を満州占領の好機ととらえて、東清鉄道の完全占領を目的として満州から撤兵しなかった。

 □ 日本はロシアの態度に強く反撥し、他面においてイギリスとの同盟へと傾斜した(1902年1月成立)。アメリカも本音のところでロシアが満州から撤兵することを軸とするロシアの孤立化を望んだ。

 □ しかし米英の態度は自国の利害に反しない限度でロシアの満州支配に反対するにとどまった。日本は独自で外交方針を決めなければならなかった。日本政府は戦争を誘発しない限度でロシア側に厳重抗議を行った。ロシアの反応は冷淡であったが日本の再度にわたる抗議に接し、日本が韓国を中立的立場に置き、韓国併合を企図せざる限度において、ロシアは韓国において日本の優越的地位を認め、他方日本は満州におけるロシアの権益を保護するという満韓交換論を提議した。しかし満州の占領を既成事実として維持し、東清鉄道の完成を急ぐロシアに満州から即刻撤退するなどという考えは毛頭なかった。

 日英同盟

 □ ロシアの満韓交換論は日本政府内に大きな影響を与えなかった。既に政府の中には親英派が勢いを占めており、日本政府はロシアに対抗するため、日英同盟締結の決意を固める。義和団事件以後、ロシアの満州侵略に積極対応するためには、日本・イギリスが協力することを以ってその利害が一致するとの共通認識のもとに本格的に論議が始まった。

 □ イギリスはロシアがフランスと同盟し自国のアジアにおける制海権を脅かすことに対抗し、日本の海軍力を利用することが望ましいと考えたのである。日英同盟交渉は1901年10月から公式に協議を重ね、1902年1月に調印された(公表されるのは2月に入ってから)。日英同盟は有効期間を5年とし、その適用範囲は東アジアに及ぶものとされ、ヨーロッパ地域を同盟の範囲とする露仏同盟とは韓国・満州についての影響力において格段のちがいがあった。そのうえ日英同盟は攻守同盟の性格を持ち、このことは日露戦争開戦後、陰に陽にイギリスが日本に肩入れする根拠となった。

 日露談判の決裂

 □ 日英同盟と前後して、アメリカの門戸開放宣言が発せられると(1902.2.21)ロシアは清国との間に2次にわたり撤兵条約を締結したが、これを破約しただけではなく、清国の主権を脅かす要求をつきつけた(1903.4)。アメリカ、イギリス、日本の三国は協調してロシアに抗議した。しかし米英ともに自国の権益が最優先であり、足並みが揃っていたわけではなかった。

 □ 1903年8月日本(桂太郎内閣)は、清韓両国の独立の保障を前提に、ロシアは韓国における日本の優越的地位を保障し、日本は満州における鉄道経営におけるロシアの特殊利益を承認することを骨子とする協商条項をロシアに提示した。
 これに対するロシアの対案は、遅れに遅れ同年10月、満州における日露協商を拒否するとの回答を寄越した。その後これに対する日本からの修正案に対し、ロシアから1904年1月6日に示された回答は日本の期待を遥かに下まわるものであった。

 □ これをうけて日本側は会談の決裂を決意したが、なお1月12日御前会議に諮って最終的修正案をロシア側に提示した。しかし、ロシアはこれに対して回答もせず、回答の期限を明らかにしないまま、1月下旬には満州とその沿岸に軍事施設を拡充し、鴨緑江一帯に引き続き脅威を加えた。そこで日本は再度御前会議を開き(2月4日)、開戦を決議し、2月6日国交断絶をロシアに通告した。

 戦費の調達

 □ 戦争には莫大な費用(戦費)が不可欠である。日本政府は当初4億5000万円に上る戦費にあてるため少なくとも1億5000万円の外貨が必要であると見積もり、日本銀行の保有正貨(5200万円)を差し引いた1億円の外貨を調達しなければならなかった。
 開戦当時日本の勝算を低く見積もった国際世論の中での外債発行は困難を極めた。しかし開戦するや戦局の好転につれて外貨相場は好調に転じ、ロンドン、ニューヨーク次いでドイツ金融界は次々に外債の引受に応じ日本政府はひとまず安堵した。

 □ 結局日本は6次にわたる外債発行(1904年5月から1907年まで)により13億円弱の外債を発行することになる。この公債は第1次大戦のあとまで残った。因みに日露戦争の戦費は最終的に18億円余に達したとされている。

 日露開戦

 □ 国交断絶を通知した後、1904年(明治37年)2月6日午後、日本海軍の軍艦は佐世保軍港を出港し、仁川、旅順、大連へと向かい、陸軍は先遣部隊が仁川に上陸し、同日海軍は旅順港に在泊中のロシア旅順艦隊に対する奇襲攻撃を行い、2月9日には露国艦隊との間に海戦を戦った(仁川沖海戦)。2月10日日本はロシア政府に宣戦布告を行い、大本営を広島に設置した。

 □ ロシア政府は宣戦布告前に日本が開戦したことに対し、日本はハーグ陸戦条約の「武力行使の前に第三国による調停を依頼する努力をする」旨の規定に違反するとして抗議を行った。

日本の勝利が与えた衝撃

 □ 日本軍は戦闘において驚くほどの勇猛ぶりを発揮した(遼東半島の先端にある「二〇三高地」の戦闘(1904年8月~12月)等にみられる)。その近代化された艦隊の行動は自在であり、作戦は独創的かつ巧妙であった。日本海海戦(1905年5月27日~28日)はバルチック艦隊を全滅させるという日本海軍の完璧な勝利に終わり、陸軍兵力によるサハリン占領(1905年7月)を容易にした。
 兵士たちは果敢に戦い、そして経済は戦争の重圧によく耐えた。日本は戦争が勝利に終わったことにより世界の軍事大国としてデビューし、極東における一大勢力となったのである。そして日本の敗戦は必至として観測していた世界中が驚倒した。

 □ しかし戦略的観点からみると、在満州ロシア陸軍は壊滅的打撃を被ったわけではなく(例えば奉天会戦(1905年3月)にあっては日本軍の包囲作戦は失敗に終わり露軍の主力を逃している)、又シベリア鉄道の輸送能力の向上によりヨーロッパからの大規模な兵力の移動が可能となっていた。海軍は満州からは遠隔の地にあったにせよ、更なる艦隊(バルト海、黒海、太平洋)を保有していた。これに反し日本はすでに財政が底をつき、軍事的には控置兵力はなく予備役を動員する余力もなかった。

 □ しかしロシアには、やがて第1次大戦とその後に生ずるロシア革命(1917年)に至る革命の足音が国内に不気味に聞こえはじめていた(第1次ロシア革命)ことや、英仏と結ぶ三国協商への動きに向けた外交関係の変化などと相俟って、極東において日本との間に戦いを継続することを不得策であるとする考えが主流となってきた。

 日露講和(ポーツマス条約)

 □ 日本は開戦当初から戦争の長期化は不利であるとみなし、ロシアとの早期講和の機会を窺っていたが、奉天会戦以後、日本はかねて日本に好意を示していたアメリカのローズベルト大統領(在職1901-1909)を通じて講和の仲介を依頼し(5月31日)、ロシアの講和への意向打診に乗り出した。もっともローズベルトが日本の戦費の調達への協力等を通じて日本に好意を示していたからといって、日本に対しヒューマンな意味で好意を抱いていたわけではない。アメリカとしては日本の力をかりて、すでに満州に確固たる地位を築いているロシアに対抗し、満州の門戸をアメリカのために開放させようという底意があったことは見え易い推論であろう。

 □ ローズベルトは講和会議に先立って、陸軍長官タフトをフィリピンに訪問させる名目でその途次日本に立ち寄らせ、桂首相と会談するよう指示した。ローズベルトはすでに朝鮮に対する日本の保護的な立場を認めていたが、折から日本との同盟を更新しようと図っていたイギリスに先んじて朝鮮に対する日本の優越的立場を公認、その見返りに日本がフィリピン侵略の意思がないことを確認したいと望んだのである。「桂-タフト秘密協定」は7月29日に締結された。

 □ 日英同盟を更新する条約は8月12日に締結され、イギリスは日本の朝鮮保護を認める内容となっている。

 □ 日本にとってはタフト協定と第二次日英同盟は、日露の講和に米英の後ろ盾を与える結果となった。

 □ ロシア側も5月の日本海海戦の決定的敗北の影響を受けローズベルトの講和勧告に応ずるに至った(6月10日)。
 講和の話し合いは8月10日からポーツマスにおいて10数回行われた。
 席上、日露両国は激しく対立した。ロシア側は、一寸の地も、1ルーブルも譲ることはできないとし、他方日本側は賠償金を必ず受領したいとして、両方の主張は平行線をたどっていたが、上に述べた両国の国内事情とアメリカの仲介圧力により漸く合意をみるに至った。

 □ 9月5日に成立した講和条約の内容は全文15カ条から成り、その要旨は次の通りである。

 1.ロシアは日本が韓国に対して有する政治、軍事、経済上卓絶した利益を有することを承認すること
 2.①日本とロシアは、遼東半島の租借権が効力を及ぼす地域以外から撤兵すること
   ②日本とロシアは占領管理する満州全部の行政権を清国の行政に還附すること
 3.ロシアは清国の承諾を得て、旅順口、大連並びに付近の領土領水の租借権等を日本に移転、譲渡する。但し清国の承諾を得べきこと
 4.ロシアは長春-旅順間の鉄道及び附属地に関する権利、並びに炭鉱を日本に譲渡すること。但し清国の承諾を得べきこと
 5.日本とロシアによる鉄道業務を経営する別約を締結すること
 6.ロシアは北緯50度以南のサハリンを日本へ譲渡すること

 □ その後1905年12月22日、条約に従っていわゆる「満州に関する日清条約」が締結され、満州における日本の利権の基礎は、「ポーツマス条約」と「日清条約」によって確立された。

 □ これらの条約によって日本はロシアから賠償金を獲得することはできなかったものの、ロシアの満州における権益は日本に帰することになった。これらの条約は日本にとって必ずしも不利な内容とはいえないが、ロシアから賠償金を獲得することができなかったことに不平を唱えて戦後に生じた「日比谷公園焼打事件」に見る如く日本国内世論には極めて不評であった。

 □ 日本は満州市場の経済的大動脈である東清鉄道南部支線を掌握し(1906年6月)、その地域を統治した。
 そして、経済独占を本格的に推進し、その結果、満州では清国の主権は排除遮断され、この状況の下にみられる日本の横暴はかつてのロシアによる満州支配をはるかに凌ぐものと受け取られた。
 日本人商人には適用された鉄道運賃の割引、郵便・電話利用における特別の便宜は日本以外の外国人商人らの活動についてはこれを妨害した。日本人は南満州の鉱山・木材・電気事業などの独占権を掌握しただけでなく、鉄道沿線附属地に徴税権と治外法権を行使した。

 □ このような行政措置は満州における事実上の門戸閉鎖であって、日本が列強に対して予ねて表明してきた、満州における「門戸開放」「機会均等」の約束には反するものであった。
 日本のこの措置に対し、既述の通り門戸開放政策をとっているアメリカは強く反撥し厳重に抗議した。

 カリフォルニア大地震

 □ 日露戦争における日本の勝利は、カリフォルニアにも大きな反響を呼び起こし、排日運動がいっそう勢いを増した。
「ハワイからの転航者は毎月500人を下らず、そのうえ日露戦争が終わったので、除隊した日本兵がつぎつぎと太平洋岸に群れをなして上陸するのは必定である。そうなればカリフォルニアはたちまち不道徳かつ低賃金の連中であふれ、白人労働者の生活が脅かされるであろう。」
 カリフォルニア州議会は、日系移民の入国を制限せよ、とホワイトハウスへこのような抗議文を送った。

 □ その翌月、1906年4月18日、サンフランシスコは大地震に見舞われた。罹災者は20万人以上、うち日系人の罹災も1万人を数えた。
 この大災害の後始末に追われている最中、彼らは東洋人、なかんずく多くの日本人に暴行を加え、財産を略奪した。アメリカの新聞はロシアを打ち負かした「好戦的な日本人」の脅威を盛んに書き立てた。いわゆる「黄禍論」である。
 市内の学校の半数が地震によって消失したことを理由にサンフランシスコ市当局は、日本人の公立学校への入学を拒否することに決めた。セオドア・ローズベルト大統領は、市当局を説得しこれを取り下げさせたが、代わりに移民法の改正を約束した。
 カリフォルニアへの日系移民は、いったんハワイ、メキシコ、カナダに入植したのちに流れ込んでくる。したがって移民法改正の要点は、ハワイ、メキシコ、カナダからの日系移民の入国を禁止することにあった。

 □ 1907年3月に移民法が改正されたが、排日の気分は高まるばかりであった。この年の春、東洋人排斥騒動が再発し、新聞はまたもや「戦争の脅威」を一斉に書き立てた。こうなると勢いは止められない。
 世論に押された大統領は、日本政府に対し米国行きのパスポートの発給をやめるよう求め、日本政府はこれを受け容れた。但し両国が移民制限条約を結んだわけでなく、アメリカ側の要請を日本側が受け入れたもので、日米紳士協約(Gentleman's Agreement)と称された。

 米海軍戦略計画担当者

 □ 日本が日露戦争に勝利したことは結果としてアメリカは徐々に日本に対する見方を変え、対日戦略を見直す契機となった。満州の地域を、各国がうまみを求めて自由に参入できる場所だと考えていたアメリカの戦略計画担当者にとって、日本は門戸開放方針に違反する唯一の国として想定されることになった。1911年、レイモンド・ロジャースと陸海軍大学校のスタッフは日露終戦後から始められていた計画を改訂し、日本の状況を以下のように想定した。

 □ 即ち、日本は行動方針を徐々に変更し、緩やかな経済的進出から最終的には公然たる侵略に移るであろう。そうなれば門戸開放政策を維持するためにアメリカは戦争準備を必要とするであろう。そのための最善の状況は、数カ国が大義のために結集し、陸戦により日本を阻止することである。そのとき蘭領印度支那に及ぶ危険は単なる牽制作戦のみであり、米海軍の果たす役割は小さく、米陸軍は出番がないであろう。
 もっとも可能性の高い状況は、日本がアメリカの封じ込め政策を終わらせ、同時に自国の通商航路を防衛しながら側面海域を現在及び将来の攻撃から守っていこうとする、というものだ。そうすることは日本は必然的にフィリピン、グアム、そして多分ハワイまで占領して合衆国を西太平洋から駆逐することになるであろう。日本は支那大陸本土に対する野望の実現を早めるため、米国領諸島を攻撃するであろう。この状況の下で、米国は独力で日本を満州から撤退させるべく、大陸への介入ではなく、海上の作戦によって戦うことになるだろう、それによって制海権を握り、失地を回復し、日本の通商路を抑え息の根を止めることになるだろう。

 □ 海軍大学スタッフは1911年、以上のようにして日米戦争論の理論的根拠を確立した。

 米国海軍の戦争シナリオとオレンジプラン

 □ カリフォルニアにおける情勢の緊迫に鑑み海軍大学のスタッフは日本との戦争シナリオを検討しはじめ、海軍の将官会議General Board(陸軍の参謀本部(General Staff)に対置される)は「開戦直前にとられるべき準備行動」のプランを作成した。ローズベルト大統領が「海軍は対日戦争の遂行を検討しているか」と諮問したのに対し、デューイ提督は将官会議が「効果的なプランを策定中である」旨を答えている。

 □ 海軍の最長老であるジョージ・デューイ(1917年歿)はこの会議の議長であり、彼が大統領に答えたプランはオレンジ・プランと呼ばれる戦略プランであった。

 □ 20世紀初頭において、アメリカは仮想敵国を色で表わすいくつかの戦争計画を作成した。各国の色別のコードネームは大統領の諮問機関である陸海軍統合会議によって割り当てられ、日本はオレンジ、米国はブルーをもって表すものとされた(因みにイギリスはレッド、ドイツはブラック、メキシコはグリーンである)。

 □ この「カラー別プラン」は日露戦争勃発の年(1904(明治37年)、チャフィー陸軍参謀総長の発想ではじめて着手され、オレンジプランもこのとき登場しているとされているが、その計画は万一日本との戦争が起きた場合の諸原則を述べただけの粗笨なものであった。しかしオレンジプランはアメリカの戦略担当者の間に脈々と受けつがれ、太平洋における日米戦争中も緻密に改訂されつつ戦争を指導し、戦争の経過はほぼオレンジプランの通りに推移した。

(未完)

<参考文献>
・エドワード・ミラー(沢田博訳)『オレンジ計画―アメリカの対日侵攻50年戦略』新潮社、1994
・崔文衡(朴曹熙訳)『日露戦争の世界史』藤原書店、2004
・渡辺惣樹『日米衝突の根源』草思社、2011
・三谷博『ペリー来航』日本歴史叢書、吉川弘文館、2003
・平間洋一『日露戦争が変えた世界史―「サムライ」日本の一世紀』芙蓉書房出版、2005
・猪瀬直樹『黒船の世紀―ガイアツと日米未来戦記』文春文庫、1998
・石川信吾『真珠湾までの経緯-海軍軍務局大佐が語る開戦の真相』中公文庫、中央公論新社、2019 

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