


2025年10月29日
(丸の内中央法律事務所報No.47, 2025.8.1)
Jack Amano
翻訳:堤 淳一
□ 1905年9月、日本はまがりなりにも日露戦争に勝利し、講和が成立した(ポーツマス条約)が、日本の勝利はアメリカ(とくにカリフォルニアの過激な白人市民)に大きな反響を呼びおこした。
1906年4月に起きたサンフランシスコ大地震の際、アメリカ市民の一部は、日本人を含む東洋人に対し略奪・暴行を加え、新聞は「ロシア軍を撃破した好戦的な日本の脅威」を書き立て、地元議会は東洋人の財産権を制限する法案を通過させた。いわゆる黄禍論(Yellow Peril)注1である。事態収拾に乗り出したルーズベルト大統領はこの法案を廃案にさせる一方、日本政府との間に紳士協定を締結し、日本は移民の数を制限したことにより、過激な白人による集団ヒステリーはひとまず鎮静した。
□ カリフォルニアにおける情勢の緊迫化に鑑みルーズベルト大統領は、海軍の将官会議General Board(=陸軍の参謀本部(General Staff)に対置される海軍の参謀組織)の長老であるジョージ・デューイ提督に「海軍は対日戦争の遂行を検討しているか」と諮問した。これに対し、提督は「将官会議において効果的なプランを策定中である」旨を答えている。
彼が大統領に答えたプランとはオレンジ・プランと呼ばれる戦略プランのことを言ったのである。
注1 黄禍論Yellw Peril(出典:フリー百科事典ウィキペディア)
1880年代より北アメリカ本土のカリフォルニアに移住した日本人移民は1900年代初頭に急増し、急増に伴って中国人が排斥されたのと同様の理由で現地社会から排斥されるようになり、1905年5月には日本人・韓国人排斥連盟が結成された。1906年4月のサンフランシスコ地震の後に悪化したカリフォルニアの対日感情のもつれは、1907年に日米当局による日本人移民の制限という形で政治決着した(日米紳士協約)。この事件を契機に、アメリカ合衆国では「黄禍」は「日禍」として捉えられるようになった。その後もアメリカ合衆国の対日感情は強硬であり、カリフォルニア州で、土地の所有と3年以上の外国人に貸与することを禁止する外国人土地法が1913年に制定され、また第一次世界大戦後の1924年7月1日に排日移民法が制定された。
□ 20世紀初頭において、アメリカは仮想敵国を色で表わしたいくつかの戦争計画を作成した。各国の色別のコードネームは大統領の諮問機関である陸海軍統合会議によって割り当てられ、日本はオレンジ、米国はブルーをもって表わすものとされた(因みにイギリスはレッド、ドイツはブラック、メキシコはグリーンである)。
□ この「カラー別プラン」は日露戦争勃発の年(1904(明治37)、チャフィー陸軍参謀総長の発想ではじめて着手され、オレンジプランもこのとき登場しているとされているが、当初のオレンジ計画は万一日本との戦争が起きた場合の諸原則を述べただけの粗笨なものであった。
しかしその後日本が国際関係に大きな影響力を持ち、日米の関係が険悪となりやがては両国間の戦争が現実となり、アメリカの勝利に終わるまでの間、夥しい研究が重ねられ緻密なものになっていった。
□ ところで一口にオレンジプランと言われるプランは完結した一編の作戦計画があってそれを
オレンジプランはやがて対日戦争の作戦研究及び策案に携わるすべての海軍士官に
□ 日本が日露戦争に勝利したことは、カリフォルニア地震後の動乱にみる如く、アメリカ市民の日本に対する見方を変化させただけでなく、アメリカ政府をして徐々に日本に対する見方を変え、対日戦略を見直させる契機となった。
当時アジアに進出した列強各国は満州を含む中国大陸の地域を、うまみを求めて自由に参入できる場所だと考えていた。アメリカもその例外ではなく、アメリカにとっては満州を支配することは宿願となっていたから、日露戦争における日本の勝利は、アメリカの戦略計画担当者にとって、日本を門戸開放方針に違反する唯一の国として想定する契機になった。
つまり日露戦争の勝利者としての日本は満州を支配しアジアに覇を唱えることを望むに違いないと考えられたのである。
1911年、レイモンド・ロジャースと海軍大学校注2のスタッフは日露終戦後から研究され始められていた対日プランを改訂し、状況を以下のように想定した。
注2 海軍大学は、ワシントン郊外のアナポリスにある海軍兵学校とともに、アメリカ海軍の二大教育機関の一つである。アナポリスの兵学校とは違って、海軍大学は艦隊任務も経験した熟練士官を学生とし、更に高度な戦略、作戦計画の立案等について学ぶ幹部学校である(日本にも同じような趣旨で江田島に海軍兵学校が、東京の目黒に海軍大学校があった。)
□ 即ち、
⑴ 日本は今後行動方針を徐々に変更し、緩やかな経済的進出から最終的には公然たる侵略に移るであろう。そうなればアメリカは門戸開放政策を維持するために戦争準備が必要となろう。
⑵ そのための最善の状況は、数カ国が大義のために結集し、日本を中国大陸に封じ込め、陸戦により日本の進出を阻止することである。この場合は日本がアメリカ領土に及ぼす危険は単なる牽制作戦のみにとどまり、米海軍の果たす役割は小さく、米陸軍は出番がないであろう。
⑶ しかしそうはいかないであろう。最も可能性の高い状況は、日本はアメリカによる対日封じ込め政策を終わらせ、同時に自国の通商航路を防衛しながら、側面海域を現在及び将来の攻撃から守っていこうとするであろう。
⑷ そうすることは、必然的に日本はアメリカ領であるフィリピン、グアム、そして多分ハワイまで占領して合衆国を西太平洋から駆逐することになるであろう。
⑸ 日本は中国大陸本土に対する野望の実現を早めるため、太平洋上にある米国領の諸島を攻撃するであろう。この状況の下で、アメリカは独力で日本を満州から撤退させるべく、中国大陸へ介入するのではなく、海上の作戦によって日本と戦うことになるだろう。
⑹ アメリカはそれに勝利して制海権を握り、失地を回復し、日本の通商路を抑え、息の根を止めることになるだろう。
*
アメリカはほぼこの諸局面の想定に沿うシミュレーションを熱意を以って継続してゆく。
□ 日米戦争の第1段階において、日本が西太平洋における米国領土を速やかに侵略するものと想定した場合、日本の攻撃に対しアメリカはどう対処するべきかはアメリカの戦略家にとって大問題であった。なにしろ太平洋の面積は約1億6600万㎢に及び、数万の島嶼が点在し、19世紀末までには列強諸国によって分割され、それ尾ぞれが主権を主張している。ている(【第1図】太平洋の分割(19世紀まで)参照)。海上作戦をもって迎撃すると一口に言っても、列強諸国の顔色を窺いつつ艦隊を移動させなければならない。また太平洋上に大艦隊を停泊させ燃料を補給し艦船を修理する施設は存在しない。補給を前提にしない艦隊行動などはありえないではないか。
【第1図】太平洋の分割(19世紀まで)
□ 東太平洋(アメリカ本土から国際日付変更線までの区域)の護りと真珠湾
東太平洋にある真珠湾は複数の艦隊が連合して停泊できるほどの広さを持ちつつ、開口部は天然の珊瑚礁によって閉ざされており防御に好都合である。
最初期の対日戦争研究では、日本の奇襲に対処するためアメリカ艦隊(東海岸のチェサピークに基地を持ち大西洋に展開していた)はスエズ運河からインド洋を経てフィリピンへ出動することになっていたから、真珠湾の太平洋における出番はなかったが、ローズベルト大統領は米本土の西海岸に兵器廠と乾ドッグが、また真珠湾には要塞を作ることができ、かつ港の安全が確保できるならばという条件で、真珠湾を海軍の拠点とするプランを認可した。こうして真珠湾が東太平洋の拠点として浮上した。
□ 西太平洋の護り
西方の護りをどうするかはいっそう難問であった。
日本軍による初期の作戦によって、西太平洋から追い立てられ、再びそこへ戻るための長い反攻戦を想定するのは英雄的な軍人にとっては考えるだけでも気力の挫けることであった。
そこで合衆国がその海軍力を積極的に発揮すれば、そのような苦渋を味わわなくてすむ、と彼らは考えた。
この目標に沿って積極的な戦略家たちは何年もの間、二つの考え方を追求してきた。一つは平時に、西太平洋のアメリカ領(【第2図】太平洋のアメリカ領参照)に要塞化した大基地を建設することであり、もう一つはこれと併行して、戦争開始の後、同地域に急造した基地にいち早く艦隊を急行させるというプランだった(通し切符through ticket作戦と通称された)。
いずれも作戦を遂行するために解決すべき問題を克服できない不備な戦略であることが明らかとなり、揃って太平洋戦争の遙か前に放棄されたが、以下にこの2つの構想について略述しておこう。
【第2図】太平洋のアメリカ領
太平洋に大要塞を作ろうという計画は「太平洋のジブラルタル要塞化」構想注3と呼ばれた。
⑴ スービック湾
マニラの北西に百キロ、ルソン島西海岸に深い錨地を持つスービックSubicという基地がある。インフラも整備されていて、海からの攻撃を守る一つの島(グランド島)の後背地を丘で守られていた。この泊地を利用して、要塞化するプランは多くの支持者を集めていた。
しかしスービックには致命的な欠陥があった。ある海軍国と交戦した場合、背後からする攻撃に弱いとみられていたのである。
さきの日露戦争に恰好の先例があるではないか。1904年、旅順港のロシア海軍基地は、周囲の丘から日本軍の臼砲をもって砲撃を受け破壊された。
スービックは地理的に旅順に似ていたがゆえに同様の脆弱性があることは明らかであった。陸軍にとってもスービックは守りにくいとされ、その要塞化は容認できないところであった。
スービックプランは遅くとも1908年における将官会議において葬られた。
⑵ グアム
1908年以降、作戦担当者の眼はマリアナ諸島の最南部にあるグアムに向けられるようになった。マニラから東へ巡航距離2420キロ、東京からは南へ2180キロというその島の位置を、計画官たちは攻防の適地であるとして高く評価した。
しかしグアムはルソンではなかった。520キロ㎢の土地はほとんど山ばかり、人口はほぼ1万であり、ルソンの何百分の一、そして都市的な基盤施設は皆無。アプラにある唯一の港は狭く、リーフが点在し、暴風雨にも弱かった。いちどきにわずか6ないし7隻の大型艦にしか石炭を積めないと見積もられ、大海軍基地とするには不適当であった。
ところが1908年、ルソン島のスービック・プランが廃案になってからグアムは予期せぬ注目を浴びることとなった。西方に基地を求める提督たちにとって、グアムは海軍と海兵隊によって十分守れる広さであるとされた。
重鎮のマハン注4はこう述べている。「太平洋におけるわが国の権益は、グアムをジブラルタルのような要塞に変えることによって保障される」。この攻防の拠点によって、海軍はハワイの安全を守り、あるいはそこを占領した日本軍を孤立させ、日本の占領下のフィリピンの救援に突進し、そして日本自体を支配下に置くのだ、と。
グアム島総督であったクーンツはグアムを「第一級の海軍基地とみなして防衛すべきである」、と訴えた。1919年12月グアム基地強化に関する議案が統合会議に向けて用意され、グアム・ロビーがクーンツ提督のもとに集結した。
しかし陸軍が次第にグアム要塞化戦略に自分たちの果たす役割が小さいと感じ始め、海兵隊もグアムプランに乗り気を示さなくなると、グアム・ロビーにとって雲行きが怪しくなっていった。
□ 第一次世界大戦が終結し、1921年にワシントン条約が締結され、グアム・ロビーは敗北した。
ワシントン条約の第19条は、10年間(後に15年間に延長)、国際日付変更線以西の米国領有地の軍備強化を禁じたからである。具体的にはフィリピン、グアム、ウェークそして西部アリューシャン列島である。
条約は同時に日本の前哨基地となりうる台湾および澎湖諸島、琉球諸島、小笠原諸島、硫黄列島、千島列島、南鳥島の軍備を凍結した。英国は自治領とシンガポールを除いた基地制限案を受諾した。
□ アメリカはワシントン条約の締結を好感を持って迎えた。決して建設されることのない米国基地の代償として、必ず建設されたであろう日本の基地を凍結させ、同時に戦艦の戦力を削減し、将来の米日主力艦のトン数を5対3の比率に固定させた、と。
注3 ジブラルタル要塞
ジブラルタルはイベリア半島とアフリカ北海岸が最短距離で地中海を扼する地点にありイギリス領を成す一帯を言い、地中海を見下ろす地理的条件からいくつもの砲台が17世紀以降支配者たちによって建設された(ジブラルタル砲台群)。この砲台群を中心とする戦術的価値に着目し、難攻不落の象徴とされた。
注4 マハン(Alfred Thayer Mahan)
アメリカ海軍の士官(最終階級は少将)としてだけではなく研究者としても名声を博した(1914年歿)。海洋戦略等に関する実績があり、「海上権力史論」は名著とされ世界各国で研究されている。
□ 「東洋のジブラルタル」構想と並んで対日戦略の初期に唱えられた「通し切符作戦」とは、大兵力による間髪をいれぬ海軍進攻作戦で、西太平洋に急造された基地に向かって、途中わずかな補給のための停泊を除き、ひたすら急行する作戦を意味した。
1906年頃から34年までオレンジ・プランの主流をなしていたこの突進策は、仮想の敵や仮定の軍艦・輸送船を前提にするプランを立案してはならないとする海軍の伝統(手持ちの駒で戦う)に反するものであったが、作戦担当者は通し切符作戦を立案するという誘惑には勝てなかった。
後述のようにこのプランは途中で破綻に至るが、将来に良い遺産を残した。つまり計画立案者の失敗を通じ、時間と距離の難問を如何に克服するか、その中心をなす補給の問題を如何にするかという課題を考える端緒となったからである。
□ アメリカ艦隊は、既述の通り通常大西洋岸(メリーランド州)の深い入江にあるチェサピーク基地に位置していた。そのため太平洋の主たる戦域に到達するためには、大西洋とインド洋を経由する2万2000キロの航路か、マゼラン海峡を経由する3万1500キロの航路をとるしかなかった。後者の場合は地球全周の80パーセントに近い距離である。
1914年にパナマ運河が開通してからは1万5000キロに短縮されたが、それでも大変な距離には違いなかった。補給の面から見れば戦場の最前線に到達するだけでも英雄的な努力と讃えられるであろう(下掲第1表参照)。
日露戦争においてロシア艦隊がバルト海から補給の欠乏に喘ぎながら苦難の航海を続け(それには当時日本と同盟を結んでいたイギリスの妨害が大いに寄与した)、疲労困憊の末に戦った日本海海戦で敗れ去った事例はまだ作戦担当者の記憶に新しいところであった。
【第1表】 米国東海岸からフィリピンまでの航海日数(1910年頃)
| ルート | 距離(km) | 日数 | 停泊回数 |
| <大西洋ルート> | |||
| スエズ運河経由フィリピン | 24,850 | 74 | 4 |
| 喜望峰(アフリカ)経由フィリピン | 26,419 | 79 | 5 |
| <太平洋ルート>(カリフォルニアおよびハワイを通る場合) | |||
| マゼラン海峡(南米)経由フィリピン | 36,531 | 111 | 7ないし9 |
| パナマ運河経由フィリピン(1914年以降) | 21,802 | 65 | 3ないし5 |
| <地球半周距離> | 20,048 |
距離は本文と違っているがフィリピンのどこまでを基準としているかが
曖昧なことによるので距離についてはそのつもりで理解されたい。
□ 作戦担当者らは当初、主としてスエズ運河経由の航路(大西洋―スエズ運河―インド洋経由)を提唱していた。それが最短コースであり、同時に天候が穏やかで商業港、電信施設、活発な石炭取引といった条件が整っていたからである。
しかし大西洋―インド洋の航路は政治的に複雑な問題が多かった。ハーグ条約に従えば、交戦国の軍艦はわずか3隻しか中立国の港に入港できず、しかも停泊できるのは24時間以内である。
また日本の同盟国である英国がスエズ運河と大部分の港をコントロールしている以上、この航路を通ることは「狂気の沙汰」だと一部の将校たちは考えた。戦艦の多くは水深の浅い運河を通行できないがゆえに喜望峰を廻らなければならず、スエズ運河を通過できた駆逐艦とインド洋で合流しなければならないという難問もあった。
□ ところで1907年に移民の処遇をめぐって対日関係が緊迫したことを受け、ローズベルトは特に日本に外交圧力をかける手段として、新しく建造したアメリカの海軍力を誇示しようと決心した。16隻の戦艦を基幹とする艦隊は白色の平時塗装を施していたがゆえに大白亜艦隊Great White Fleetと呼ばれた。バージニア州のハンプトン・ローズを1907年12月16日に出航し南アメリカを経由して、太平洋をわたり、そして世界を一周した注5。艦隊は7万4千キロを434日で航行し、1909年2月に帰港した。現代の軍艦は堅牢なことが証明されたのだ。補修や補給用に少数の船を従えるだけで遠距離を航行できたのである。
世界巡航が終わった後、海軍の意見は、たちまち距離の長さにかかわらず南米を回って太平洋に至り極東に向かうルートを選ぶほうに傾いた。(前掲第1表参照)
注5 1908年10月大白亜艦隊は日本へも寄港している。斉藤海相の提言で、周航開始後日本側の招待に応じて行われた。艦隊の乗組員は戦艦三隻に士官が招待され、東郷元帥に迎えられた。また水兵3000名が上陸を許された。
□ 艦隊を東太平洋に集中する問題は1914年頃までにマゼラン海峡経由に落ち着いた。残る問題は東太平洋に集結した艦隊をどのようにして西太平洋へ移動させるかであった。
⑴ アリューシャンルート
最短のルートはアラスカとアリューシャン列島が作る大円弧に沿うものであった。しかしこの地帯の悪天候と貧弱な港という問題にはプランナーたちは躊躇せざるを得なかった。⑵ 南太平洋ルート
南太平洋は、パナマから直接にせよ、ハワイ経由にせよ、進攻の大通りとして推進するには熱が入らなかった。たしかに南太平洋のように遠隔の海域ならば艦隊は日本軍の攻撃から比較的安全だろうが、航程があまりにも長すぎた。また合衆国はサモアのツーツイラに、取るに足りない港を持っているだけで、日本軍を攻撃するためには仏領ポリネシア、英領ソロモン諸島、独領アドミラルティ諸島などで石炭を補給する必要があった。⑶ 中部太平洋ルート
検討の結果、第一次世界大戦直前までの間に、海軍の戦略家たちは、「通し切符作戦」を発展させるため、中部太平洋直進ルートを不動のものとした。即ち遅くとも1914年には、中部太平洋を経て進攻するプランに作戦計画担当者の間に合意ができた(【第3図】1914年3月時点における中部太平洋進行ルートの想定参照)。 □ 日本の目標はアジア大陸にあり、その頼みの綱は強大な陸軍だった。対するアメリカは、現下の政治的な状況から陸軍を外征させることは困難であり、海からの戦いを挑むしかなかった。と言うことは、米軍の使命は、敵の陸軍力をこちらの海軍力で打ち破ることとされたのである。
他方日本の側からしても最も確実な戦略は米国海軍を日本陸軍と戦わせることであったから、米軍からすれば地上部隊と航空戦力をそなえた日本の海軍基地に手を出すのは得策ではないと考えられた。
□ こうした「海をもって陸をたたく」思想は後々太平洋戦争において活かされたけれども(例えば海上兵力をもって日本の島嶼基地への兵站を遮断し、孤立させる作戦等)、こうした教訓を戦略構想の中に活かしてゆくのは、厄介なことだった。
太平洋があまりに広すぎ、中継基地となる島があまりにも少ないことから「通し切符作戦」の突貫思想一辺倒ではまかない切れなかったからである。
アメリカ海軍が西太平洋にその影響力を行使するためには前人未踏の困難を克服しなければならないことが次第に明らかになる。
□ 石炭補給の難問題は、計画官たちをして補給について真剣な研究を始めさせるきっかけになった。
西太平洋戦域に向かう途上、艦隊はその規模、速力、航路にもよるが、19万7千トンから48万トンの石炭を消費する。
その補給のためアメリカの専門家は、広い太平洋で作戦する海軍が必要とするのは艦隊と同じ速さで行動できる大型石炭船であると判断し、1908年、海軍は艦艇建造費の実に59%を大型石炭船の建造に当てることになった。余りにも多額である。
1、2ヶ月間の作戦行動に必要な石炭は12万5千~22万5千トンに達する。そこで1910年には、新しく7隻の大型石炭船が着工され、その大きさは戦艦に負けない巨大船舶だった。
□ 当時艦隊の戦闘力は、基地から1600キロ離れるごとに、その10パーセントが失われるものと推測されていた。船の至るところに損傷が発生し、艦底に付着する熱帯性藻類は乾ドックを出て数ヶ月たたぬうちに速力を数ノット低下させるからである。これらのことが、本国を遠く離れた艦隊の戦闘能力を弱めていく。その上、戦闘海域が米国本土の兵器工廠や炭鉱から遠く離れている場合に互角の戦力を維持しようと思えば、戦域までの距離を勘案すると日本軍が用意する5倍から10倍の商船(石炭船)を随伴しなければならなかった。当然、船足の遅いこれらの船舶は航海の途中で敵の攻撃にさらされることとなる。
□ 肝腎なことは、艦隊はその航程の最後の段階において日本の間断ない攻撃の中を突っ切らなければならないということである。そのうえ遠征艦隊は軍艦も補給艦も無傷のままフィリピンに到着しなければ意味がないということである。
□ 残る問題は港であった。補給の行われる港はいずれにせよフィリピンからずいぶんと遠いはずである。6千4百キロの航続距離を持つにとどまる戦艦はハワイから8千キロ以上を寄港地なしに突破することはできない。寄港地は必須である。
だが船乗りにとって垂涎の的となるような島が中立国の手にあった。突貫ルートに沿って3200キロ、ドイツ領ミクロネシアの中に見事な環礁が何十となく並んでいた。
【第4図】 ウォレアイ島
*東西3マイル弱に拡がる環礁が燃料補給点の一つを成すとされている。
このような不便な補給点において大艦隊に補給を行うことを想定しなければ
ならない点において作戦プランの危うさが窺える。
日本と仲の良くないドイツの領土であってみればミクロネシアで補給を受けられるのではなかろうか。しかし艦隊がミクロネシアで補給を受けるとした場合、重大な懸念が2つあった。第一は、それが国際法に触れることだった。第二に、ミクロネシアでの停泊は軍事的に危険であった。艦隊は無線電信を装備した日本の偵察艦に追尾されているはずだ。また礁湖のどれかは罠かも知れない。
□ 問題はそれで終わりではない。ひとたびミクロネシアで無事に補給を受けられるという問題が克服されても、「通し切符作戦」の艦隊はフィリピンに避難所を見つける必要があった。
積極派は、かつて地球を一周した偉大なる戦艦は「出発したときよりも良好な状態で日本海軍と交戦できる」だろうし、オーバーホールの必要性などないと豪語した。
しかし現実主義者たちは、西太平洋を突っ切る過程で敵と遭遇する可能性を指摘し、交戦があれば損耗は免れず、また速力を上げて敵を振り切ろうとすれば燃料が底をつく可能性もあると論じた。
□ しかし「通し切符作戦」の隠すべくもない重大欠点は、如何にしても現実に洋上に有力な基地が存在しないことだった。
(未完)
<参考文献>
・エドワード・ミラー(沢田博訳)『オレンジ計画―アメリカの対日侵攻50年戦略』新潮社、1994
・黒野耐『大日本帝国の生存戦略―同盟外交の欲望と打算』講談社・講談社選書メチエ、2004
・猪瀬直樹『黒船の世紀―ガイアツと日米未来戦記』文春文庫、1998
・NHK取材班編『対日仮想戦略「オレンジ作戦」』角川文庫、1995
・崔文衡(朴曹熙訳)『日露戦争の世界史』藤原書店、2004
・石川信吾『真珠湾までの経緯-海軍軍務局大佐が語る開戦の真相』中公文庫、中央公論新社、2019
・渡辺惣樹『日米衝突の根源』草思社、2011
<挿図>高橋亜希子
| 「訳者」のことば) 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。 昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。 いまや我々は西欧人である。 しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。 かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。(平成19年(2007年)4月) |