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弁護士 堤 淳一

2026年06月18日

太平洋の覇権(41) ----- オレンジプラン(2) ― アメリカの対日戦略

(丸の内中央法律事務所報No.48, 2026.1.1)

Jack Amano

翻訳:堤 淳一

 第一次世界大戦

 □ 1914年7月、ヨーロッパにおいて第一次世界大戦が始まり、ドイツ、イギリス、アメリカ、日本による、極東と太平洋における覇権争いに大きな影響を及ぼした。
 1904年以来イギリスと同盟関係にあったことも与って日本は太平洋・インド洋においてドイツの攻撃を受けていた英国からドイツ艦隊の捜索と排除の要請を受けた。日本側はこれらを参戦の要請と受けとめ、加藤高明外相は「英国からの依頼による同盟の情誼」と我が国の国際的地位の向上のために参戦するものとしたが、本音を言えば日英同盟の義務というより、今次の戦争は日本が日露戦争の後に生じた不況から脱する「大正時代ノ天佑ニシテ、日本国挙国一致ノ団結ヲ以テ、此ノ天佑ヲ享受セサルへカラス」(元老井上馨)と言うところが本音であったろう。
 日本にとってこの戦争は極東と太平洋からドイツの植民地を奪い、この地域を日本の勢力圏として確立する、またとない機会に映ったのである。

 □ 日本は8月24日に参戦するや、山東半島に29,000人を派兵、11月には陸軍が青島のドイツ総督府を降伏させた。他方、太平洋のドイツ領に対する作戦は、ここを根城とするドイツ艦隊の撃破を名目にして行われたが、ドイツ艦隊は優勢な日本海軍との対決を避け、早々にドイツ本国へ移動しており、双方の直接対決はなかった。

 □ ところで当面における現場第一線部隊(第2南遣支隊)に対する軍令部の指示は、ドイツ領の占領はイギリスの警戒心を刺激するとして、作戦の目的とはしなかった。しかしその後における秋山軍務局長(日露戦後における日本海海戦の連合艦隊作戦参謀)らによる主戦論が主流を占めて、第1南遣支隊に対してドイツ領を占領すべきとする訓電が発せられた。

 □ 10月7日、ドイツ領占領の訓電に接した第1南遣支隊の陸戦隊は本格的にヤルート島を占領し、引き続いて東カロリン諸島のフサイ、ポナペ、トラックの諸島を順次占領した。西カロリンには第2南遣支隊(戦艦薩摩注1)がヤップ島を占領、ドイツ人官吏を拘束した。10月8日から10日にかけてパラオに軍艦矢矧(軽巡)が赴いてヤップ、コロール、アンガウルの各島を占領した。
 マリアナ諸島のサイパン島は10月14日、戦艦香取によって占領された。

 □ こうして日本軍が太平洋において占領した地域はマーシャル、マリアナ、カロリン諸島を含むミクロネシア群島の一帯であり、作戦は海軍のみで行われた。海軍はどうやらこの地域を縄張りとしてとらえ、陸軍の容喙を快く思っていなかった節がある。
 これらの島々を占領した日本海軍は占領下の島々で軍政を開始した。

 □ 連合国間の協定により、赤道以南のドイツ領は8月から9月にかけて、ナウル島は英・豪・ニュージーランドが輪番で統治することとされ、赤道以南のニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島はオーストラリアが、またサモア諸島はニュージーランドが占領した。

 □ その後日本は12月1日頃までに、赤道以北のドイツ領は戦後も日本が保持し続けるとする方針を決定した。
 その頃、オーストラリアとニュージーランドは米国と同様、「黄禍論」(本誌47号参照)にとりつかれており、他方日本政府は戦後の敵国の領土処分について、ヨーロッパの連合国間で日本に不利な密約が交わされたのではないかと疑心暗鬼に陥っていた。
 不安を感じた日本政府は1917年初めには、英国政府に対して、占領中の太平洋諸島を日本へ併合することを要求する決意を固めたようで、折からイギリスが日本に対して日本海軍の艦艇(駆逐艦隊)を地中海に派遣することを要請してきた際、日本政府はこれを戦後における領土併合の要求を切り出す好機と捉えた。

 戦後処理の密約

 □ 1917年1月、日本政府は戦後に予想される講和会議において提案を予定している山東半島の様々なドイツの権益の取得と、赤道以北のドイツ領諸島に対する日本の要求を支持するよう英国に求め、その賛同を得た。
 その後、日本政府は3月中にフランス、ロシア、イタリアとの間に同様の合意をとりつけたが、米国はこの時点では参戦していなかったから、これらの重要な秘密協定は、米国には伝えられなかった。

 □ その後、1917年4月アメリカが連合国側に立って参戦したあと、日本政府は太平洋のドイツ領の戦後処理に関する英仏露伊各国との秘密協定をはじめてアメリカに伝えた。このとき米国政府は表立った反対はしなかったので、石井菊次郎駐米大使はこれを米国政府による黙認と受けとった。戦時中日本等がはりめぐらした包囲網の中にあって、米国は有効な策を打ち出せないでいた。
 アメリカ海軍省には大平洋方面の作戦に役立つ戦争計画は何もなかったように窺える。

 □ 戦争終結の時点で米国海軍の中で広く支持されていた見解は、ドイツ島嶼領には貧弱な港湾施設しかなく、常駐の守備隊がいないにもかかわらず、ドイツ艦隊が太平洋の連合国の補給線にとって看過できない脅威となっていたことに照らすと、もし日本がこれらの島々を併合して要塞化し、ドック、兵舎、沿岸砲台、貯蔵設備、飛行場などを整備するに及んだ場合には、米国にとって脅威となることについて懸念を隠せなかった。
 しかしながら、日本は戦後しばらくの間、日本と列強との間にとりかわされた密約について、アメリカは事態を「黙認」するであろうと考え、ドイツ領の島々を日本領土に併合できると考えていた。

 大戦の終結とパリ講和会議

 □ 1918年11月ドイツが休戦したことにより、第一次世界大戦は連合国側の勝利を以って終結し、1919年1月、戦後処理のためパリで講和会議が開かれた。 33箇国が参加したパリ会議はアメリカのウィルソン大統領を議長とし、敵国の領土問題を含む重要案件は最高会議(Supreme Council)で審議され、最高会議は「主たる同盟及び連合国」Principal Allied and Associated Power(PAAP)の代表から構成するものとされた。最高会議は米国、英国、フランス、イタリア、日本で構成され、この中で実質的に会議を主導したのは米国、英国、フランスであった。
 1月27日の第10回最高会議で日本代表は初めて、太平洋の旧ドイツ島嶼領を併合したいとする要求を提案した。

 □ 日本の主張は、日本がこの島々を領有する根拠は、連合国の戦勝に貢献したということ、軍政下の島々において日本が施した人道的な諸施策(住民に対する生活のための職や学校教育の提供等を含む)の成果が上がっているとする主張であった。
 イギリスもまた太平洋のドイツ植民地の併合を要求した。その根拠は植民地統治国としてドイツは自国の利益のために植民地住民を虐待し搾取することに終始したもので、戦後における植民地統治国としては不適格ということにあった。

 □ しかし、アメリカのウィルソン大統領は原則の問題として併合に断固反対し、ドイツ植民地は特定の国によって併合されるのではなく、国際連盟のもとで委任統治制度が確立されるべきであると唱えた。ウィルソンは国際連盟のみを、戦争の結果として得られた領土を処分する権限を持つ機関にしようとしていた。
 ウィルソンの提案はたちまち会議に大きな波紋を呼び、もっとも激しい反発は英国とその自治領諸国、とりわけオーストラリアから起こった。ドイツ植民地が委任統治のような不安定な制度のもとに置かれては、誰もそのような地域には投資しないであろう、というのが彼らの主張であった。

ヴェルサイユ条約と国際連盟の設立

 □ ドイツ植民地の処理問題をめぐる議論が停滞している間、1919年2月3日に国際連盟設立のための準備委員会が発足し、連盟規約の起草の討議が進められていた。
 この委員会は15名から構成され、PAAPから2名ずつ、これに加えてベルギー、ポルトガル、ブラジル、中国、セルビアから1名ずつの委員が選ばれた。委員会は1月30日の最高会議で採択された委任統治諸島に関する決議の内容を国際連盟規約の条文の一つに含ませることを決定した注1

 □ 1919年6月28日にパリ郊外のヴェルサイユ宮殿でヴェルサイユ条約が参加国の間に締結され、その第119条においてドイツが太平洋諸島を含むすべての海外領土をPAAPに対して放棄したことが明記された。こうして国際連盟ではなくPAAPが各国に委任統治地域を分配する形となった。
 かかる分配は後日国際連盟に設けられた連盟理事会により追認され、理事会と受任国が結ぶ個々の委任統治条項は理事会の専管事項となった。

 □ 国際連盟規約の採択に続き、最高会議は5月7日に旧ドイツ植民地の分配を決定した。この決定は実質的には英国、フランス、米国によって行われた。この時、日本とイタリアの全権は会議を欠席していたが、分配はほぼ戦時中の密約に沿って行われた。こうして日本は5年近く軍政を敷いてきた赤道以北のドイツ諸島を、委任統治地域として分配を受けたのである。

 □ パリ講和会議は1919年4月に国際連盟規約を採択し、6月28日にヴェルサイユ条約を調印して終了した。
 ところがアメリカ議会はこれに先立ち同年1月ヴェルサイユ条約の批准を拒否した。国際的な孤立主義(モンロー主義)を標榜する共和党の反対にあったためである(ウィルソン大統領は民主党)。

 □ ヴェルサイユ条約はドイツの敗戦処理の課題(巨額な賠償金の制裁を含む)だけではなく戦後の国際秩序の問題を取扱い、条約の第一篇は国際連盟の設立に関する規定をなしていた。それゆえヴェルサイユ条約が批准されなかったことはアメリカが国際連盟に加入できないことを意味した。
 かくして発案者の米国が国際連盟に加盟できないという変則的な事態が生じ、ウィルソン大統領は苦境に立たされた(その後1924年2月に歿した)。

 □ しかしとにもかくにも1920年1月10日、国際連盟はアメリカ抜きで連盟規約を採択して成立した。
 原参加国は42箇国、連盟規約は総会及び英、仏、伊、日の4箇国を常任理事国(及び非受任理事国4箇国)とする理事会、事務局その他の付属機関を設けることを定めていた。


 注1 最終的に国際連盟規約22条に結実した委任統治の方式は、後にA式、B式、C式の3種類に区分されることになった。

A式 ・・・ A式は伝統的な国際法上の保護国に近く、一定の自治的な政体が現地にある場合にそれを受任国が後見するものであった。

B式・C式・・・ B、C式は本質的に受任国の直接統治に置かれる点で従来の植民地と外見上は大差ないものであった。B式とC式の主な違いは、前者には門戸開放原則(Principle of open door)が適用されるが後者にはそれがないことである。これは、C式委任統治地域が受任国の「構成領土の一部」(an integral portion of)として統治されるからである。

   1919年4月28日に講和会議の総会で承認された国際連盟規約の中のC式委任統治に関する条文は以下のようになった。
「南太平洋の島々のいくつかは(中略)受任国の構成領土の一部として(as integral portions of)統治される」)
(等松春夫『日本帝国と委任統治』18頁を参照した)

 

 ワシントン会議

 □ 翌1921年7月2日、アメリカのハーディング大統領(共和党)は、日本、イギリス、フランス、イタリアに対し、軍備制限および太平洋・極東問題を討議する国際会議を開くことを非公式に提案、同年11月12日(~22年2月6日)ワシントンのコンチネンタル・メモリアルホールにおいて会議が開かれた。

 □ この会議の主要な目的は、第一次世界大戦後に三大海軍国といわれたアメリカ、イギリス、日本の間に激しい建艦競争が始まっていたことに徴し、これを中止し、三ヵ国の力のバランスをどう保つか、という点にあった。
 アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五大国と、オランダ、ベルギー、ポルトガル、中国をあわせ9ヵ国が会議に参加した。
 日本からは、加藤友三郎海軍大臣(海軍大将)、徳川家達貴族院議長、幣原喜重郎駐米大使の3名を全権に、埴原正直外務次官、海軍側からは、加藤寛治、末次信正、永野修身、野村吉三郎らのメンバーが参加した。

 □ 会議の背景となる列国における建艦競争は次のような様相を呈していた。
・日本
 日本の主力艦は艦齢8年未満の戦艦と巡洋戦艦各8隻、それに見合う補助艦を持とうとする大計画を立てていた(「八八艦隊構想」と呼ばれた。)。日本の海軍予算は、1921年には国家予算の32.5%に達した。
・アメリカ
 1916年に海軍法が成立、戦艦10隻、巡洋戦艦6隻を含む、合計186隻の大建艦計画を立てていた。
・イギリス
 第一次大戦中、ドイツとの激戦によって消耗を強いられたイギリスも、日米の建艦計画を前にして、巡洋戦艦4隻の建艦計画を立てていた。

 □ こうして、三大海軍国の間の建艦競争は激しさを加え、その結果は各国の国家財政を著しく圧迫するようになり、このまま競争を続ければ各国ともに財政が破綻する、という状況にたち至っていた。これに加え、第一次世界大戦後に世界を襲った不況とあいまって瀰漫した厭戦気分が軍縮を望む世論となり、これが世界中に広まった。各国は、国際的協定によって軍縮を行い、建艦費の重荷を減らそうと望んだのである。

 アメリカの提案

 □ 第1回の総会でハーディング大統領が開会演説を行ったあと、ヒューズ国務長官を議長に選出。ヒューズ長官(全権)は、次のように軍備制限に関するアメリカの具体案を披瀝した。
①アメリカ・イギリス・日本の三国は、施工中、もしくは計画中のすべての主力戦艦の建造計画を放棄すること。
②老齢となった戦艦の幾隻かを廃棄すること。
③関係各国の現有海軍勢力を出発点とすること。
④海軍勢力測定の基準を、主力戦艦のトン数におくこと。補助艦艇はそれに比例して割り当てること。

 □ こうして上記①②により放棄・廃棄される主力戦艦は米英日の三国をあわせると計66隻、合計トン数187万8043トンに達し、ただちに廃棄することが提案された。そして廃棄する戦艦に代わって新たに建造される代替艦は、排水量3万5000トン以下でなければならない、という提案も同時に行われた。

 □ これによれば、代替艦の保有上限は、アメリカ・イギリスがともに50万トン、日本はその6割に該る30万トン。すなわち、米・英・日の比率を5・5・3にするというものであった。しかも代替艦の起工は10年間行ってはならないとするものであった。

 日本の声明

 □ 第2回総会の席上、日本全権、加藤友三郎海相は、次のように声明した。
「日本は米国政府の軍備制限案に現れたる其の目的の誠実なるを深く多とするものなり・・・・・・。故に日本は欣然右提案を主義において受諾し、敢然海軍軍備の大々的削減に着手するの用意あり。」と。
 加藤全権の発言は日米関係の緩和につとめる必要性を述べ、ドイツとロシアが戦争により凋落した結果、日本と戦争の起きる可能性のある国は米国のみであること、戦費の高騰化傾向に照らすとその調達は日本が発行する国債に依存する外なく、その引受先は米国以外に考え難いことを示唆するものであった。

 □ 「而して、其の米国が敵であるとすれば此の途は塞がるるが故に、日本は自力にて軍費を作り出さざるべからず。此の覚悟の無き限り戦争は出来ず。英仏は在りと雖も当てには成らず。斯く論ずれば結論として日米戦争は不可能といふことになる。」というのであった。
何故対米比6割なのか?

 □ これに対し首席随員の加藤寛治中将は、加藤友三郎全権が上記の声明を行った翌日、海軍専門委員会において日米英の勢力比問題について再考を求める提案を行ったが、米英側は加藤(寛)提案に取りあわなかった。

 □ 後の話になるが、加藤(寛)首席随員は懐旧談の中で次のようにワシントン条約の交渉中、アメリカは日米主力艦の比率を6:10にするため詐略的な交渉を行ったと語っている。(石川信吾『真珠湾までの経緯』43頁による)
 「当初、アメリカが海軍軍縮の原則として唱えたのは、各国が現に保有する勢力をもとに比率を決めるということであった(注:上記「アメリカの提案」③参照)。これは軍縮の精神に照らし妥当な主張だったので、日本も同意した。しかしいよいよ現有勢力をもとに各国海軍の比率を算出すると、日本の対米比率はどうしても7割以上になってしまう。そこでアメリカは日本の現有勢力を減らすため、すでに完成していた陸奥(注:戦艦。39,050トン)を除外してみたり、一方自国の現有勢力には、まだ起工してもおらず紙上計画にとどまる艦まで加えて現有勢力を水増しした原案を押しつけてくる始末だった。勿論日本側は日米海軍委員会においてその非なることを批判した。この間、非公式会談でアメリカ委員は日本委員に対し、事実は貴説のとおりだが、日本に6割以上保有させることは、アメリカの世論が許さないと答えた」。

 □ アメリカが日本の主力艦保有比率を「対米6割」に押さえ込もうと躍起になったのは米国民の世論だけでなく戦術的な理由が底流にあったとされる。
 即ち、艦隊の戦闘力は、一般的には基地から1600キロ離れるごとに、その10%が失われるものと推測されていた。
 まず艦底に付着する熱帯性藻類は乾ドックを出て数ヶ月経たぬうちに速力を数ノット低下させる。そして航行中、艦船の至る箇所に損傷が生じ、補修部品の不足は慢性化する。その上、戦闘海域は米国本土の兵器工場や石炭を供給する炭鉱から遠く離れた西太平洋に想定されていたので、補給のため輸送船を連れてゆかなければならない。当然これらの船足の遅い船舶は航海の途中で敵の攻撃にさらされることとなる。こうしたことを考慮に入れて、戦闘海域において互角な戦力を維持しようと思えば、日本側の5倍から10倍の輸送船団が必要とされる。
 このように、予定戦闘海域に到達し得る艦船の数と戦闘力は当初より減耗するから、予め用意しておく艦船の数は敵艦隊の数を当然に上廻っていなければならない。
 戦闘開始時に海域に集まる艦船は多ければ多いほどよいに決まっている。交渉にあたっては水増ししておくに限る。

 □ こうしてこれらの戦闘海域まで到達するに要する時間と、戦闘力の減耗(日本軍による攻撃によるものを含む)を考慮に入れると、アメリカ側は日本の1.6倍の兵力を以って、ようやく西太平洋における現実の戦闘力が等しく保てると見積もったのである。(エドワード・ミラー(沢田博訳)『オレンジ計画』37頁の記載を参考にした)

 太平洋基地の現状維持

 □ しかし加藤(寛)委員の意見は加藤(友)全権によっても却けられた。
 その後12月12日、加藤全権は米英の全権と会談し、その席で次のような覚書を提出したのである。
 ①主力艦の比率問題については、10対6の比率を承認すること。
 ②ただしその承認は、太平洋における要塞、および根拠地の現状維持について、明瞭なる了解を得ることを条件とすること。
 つまり、主力艦の対米英比6割を受け入れる代わりに、太平洋の基地の現状凍結を求めたのである。

 □ これに対し米海軍は太平洋のアメリカ領土がそのような現状凍結の制約の下に置かれることに反対したが、アメリカのヒューズ全権は海軍の要請を却け、ハワイは制限外(ハワイの防備を拡充することはお構いなし)とすることを条件として日本の提案を基礎とすることに同意した。
 ヒューズは、日本がミクロネシアを要塞化しなければアメリカは日本を打ち破ることができるが、日本がこの地域を軍事化してしまえば、米艦艇によるフィリピンへの進撃がこの地域でストップさせられてしまうと計算し、それを避けるため加藤友三郎全権の提案に異存はない旨を表明した。また、イギリスのバルフォア全権も、オーストラリアとニュージーランドを制限外とすれば異存はないことを表明した。
 こうして12月12日の会議をきっかけに、事態は急速な進展をみた。

 ワシントン軍縮条約の締結

 □ 1922年2月6日、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの5ヵ国の間で、次のような内容の海軍軍備制限条約が結ばれた。
「第四条
 各締約国の主力艦合計代換トン数は基準排水量においてアメリカ合衆国52万5千トン、イギリス52万5千トン、フランス17万5千トン、イタリア17万5千トン、日本31万5千トンを超ゆることを得ず。・・・・・
 第十九条
 合衆国、イギリス及び日本は、左に掲ぐる各自の領土及び属地において、要塞及び海軍根拠地に関し本条約署名の時における現状を維持すべきことを約定す。
㈠合衆国が太平洋において現に領有し又は将来取得することあるべき島嶼たる属地(省略)
㈡香港及びイギリスが東経百十度以東の太平洋において現に領有し又は将来取得することあるべき島嶼たる属地(省略)
㈢太平洋における日本の下記の島嶼たる領土及び属地、即ち千島諸島、小笠原諸島、奄美大島、琉球諸島、台湾及び澎湖諸島並びに日本国が将来取得することあるべき太平洋における島嶼たる領土及び属地」
 こうして太平洋の新しい秩序が確立し、1922年2月6日、3ヶ月にわたったワシントン会議はその幕を閉じた。

 ミクロネシアにおける日本人の交易活動

 □ 第一次世界大戦が始まる以前においても、日本企業はかなりミクロネシアに進出していた。古くは1890(明治23)年に田口卯吉が士族授産金をもとに設立した南島商会が小笠原諸島からグアム、ヤップ島にかけて交易を行ったことを手始めに、10社を超える合名会社、合資会社等が1918年まで次々に設立され、ミクロネシア島民との間に交易を行った。ほとんどが貿易に従事したが、採鉱、農園等に手を出した会社もあった。これら貿易商社の中では、南洋貿易株式会社(南貿と呼ばれた)が突出しており、5隻の船舶を所有し、ミクロネシア全体にわたって商業網を張りめぐらした。

 □ しまいにはミクロネシアの大部分が日本人の経済支配下に入り、主権者であるはずのドイツ人がおさえているのは、ヤルート商会が貿易を独占しているマーシャル諸島と、パラオに本部を置くドイツ南海燐鉱会社が営むアンガウル島の燐採掘だけになってしまった。

 日本統治下の南洋

 □ 第一世界大戦が始まると、日本の財界は、軍需景気で空前の活況を呈した。「南洋群島」もたちまち投機の対象となり、様々な事業が次々に企画された。しかしこの動きはバブルにすぎず、1917年にサイパン島でサトウキビ事業を興した西村拓殖会社は、サトウの暴落によって、また渋沢同族会社をはじめ、岩崎清七、大橋新太郎、藤山雷太などが株主となり、西村と同じ時期にサイパン島で製糖事業を興した南洋殖産会社は従業員の乱脈経営によって瓦解した。
 このあと台湾新高製糖の常務松江春次は西村拓殖と南洋殖産を買収し、1921年11月、南洋興発株式会社を設立した。同社は合計3000人の労働力を確保し、ドイツ製の最新式製糖機を入れ、鉄道も50キロ近く敷設して、万全の準備を整えた。しかしサトウキビの根を枯らす赤腐病とネズミの跳梁により生産は落ち込み、また1923年に東京に送ったサトウは関東大震災のため灰になった。しかし松江は挫けず、サトウの生産に勤め徐々に生産を上げ、南洋の糖業はその基礎を固めることができた。やがて南洋興発は、ティニアン全島の商圏も手に入れ、酒造、水産業、鉱業、タピオカの澱粉製造にも手を広げたので、1930年半ばまでに、南洋群島の全人口の約半分が、同社の従業員になった。
 貿易の面では南洋貿易株式会社(南貿)が更に発展し、南洋群島のほとんどの貿易を独占して、海運、ココヤシ栽培、水産などにも活動分野を広げた。

 皇民化教育

 □ 日本がこの島々を領有する根拠としては、連合国の戦勝に貢献したということ、軍政下にあった島々において日本が住民に対して学校教育の提供等を含む人道的な諸施策を講じておりその成果が上がっているとする主張をしたことについては既述した。しかしそれは「皇民化」政策によって住民たちを同化しようとした施策の一環であり、1922年には「南洋庁公学校規則」を定め、島民の子弟を教育するために、日本人のための小学校とは別に公学校を作り、日本語で教育を行った。日章旗の掲揚、君が代の斉唱、教育勅語の奉誦、宮城(皇居)遥拝、神社参詣、天長節、紀元節などの国家行事への参加が児童に強制され、島民の皇民化を企図したものであった。

 南洋庁の設置

 □ このような紆余曲折を経て1922年4月27日、日本は新たに南洋庁を設置し、南洋群島の委任統治を開始した。この間、軍政を敷いていた日本海軍の守備隊は1921年初めから順次撤退を開始し、委任統治が正式に開始される1922年4月までに南洋群島から完全に撤収した。こうして1914年以来8年に及ぶ海軍の軍政は終了した。守備隊の撤収と同時に、島々にあった軍事施設も解体・撤去された。

 □ 南洋庁は当初は内閣の下に設けられたが、軍政を廃し、民政を開始すると共に外務省の管轄下に移され、1929年に拓務省が設置されると南洋庁は外務省と拓務省の両省が共同して管轄することとなった。南洋庁は本庁をカロリン諸島パラオのコロールに置いた。委任統治地域は6つの行政区に分けられ、マリアナ、パラオ、ヤップ、トラック、ポナペ、ヤルートにそれぞれ支庁が置かれた。(【第1図】参照)

【第1図】日本の委任統治領(南洋庁)
【第1図】.jpg

 □ 南洋庁は産業殖産にも力を注ぎ、沖縄から招致した漁民にマグロ漁を奨励し、またカツオ節製造を援助した。この政策が成功して、さらに沖縄県人が渡来し、1930年代までにカツオ節産業は、1,500人の従業員を擁する事業にまで発展した。ところでパラオ支庁のアンガウル島は燐を産出する。そこで南洋庁は、官営事業として、アンガウル島に採鉱所を設け、1936(昭和11)年には、国策会社の南洋拓殖株式会社を設立し、燐採掘の事業を引き継いだ。同社はヤップ支庁、ポナペ支庁などで農園経営もおこない、また多くの関連会社を興して事業を広げた。1923年以後は輸出が輸入を上回り、1932年以後は、国庫扶助なしに独立財政を維持することができた。人口も着実に増加し、後に1940(昭和15)年における南洋群島の人口は、日本人8万4478人(内半数が沖縄県人)、ミクロネシア人5万1106人、日本人を除く外国人124人であった。

 1922年頃のオレンジプラン

 □ ワシントン会議を間に挟む1921年7月から22年9月まで、クラレンス・ウィリアムズ(海軍少将)が海軍省の戦争計画課長に就任し、オレンジプランの第2段階作戦プランは、委任統治領を漸進的に横切る侵攻作戦に改められた。ウィリアムズの下でいくつかの報告書が作成され、1922年、戦争計画課は遠大な『米日状況評価書』を提出した。数ヶ月後、作戦部長とデンビー長官は一部修正されたこの評価書を承認し、正式なオレンジプランの骨格として取り扱うこととした。

 □ フィリピンまで一気に突っ走る「通し切符」作戦は自暴自棄的な賭けに近く、集中的かつ急速な準備が必要とされること、基本的には洋上にすぐれた基地を得ることが困難で、補給線を確保することが難しいこと、大艦隊の急速な移動に必要なコミュニケーションを確保することが難しいこと等の問題を含み、採用は不可能であるとされた。

 しかしながら米国が中部太平洋の制海権を握り、適当な距離を前進する行動を繰り返しながら補給手段に合わせた柔軟な速度で進むことができ、艦隊の行動の自由が確保されれば(以下、漸進作戦という)、これらの困難は克服しうるのではないか。
 このようにして太平洋を島づたいに西進するプランが策定された。但しこのプランはアメリカ艦隊が委任統治領を突切ることを予定していた。

 □ 委任統治領は国際連盟から統治の委任を受ける。そして具体的には連盟理事会に設けられる「常設委任統治委員会(PMC)」のもとに置かれた。具体的には受任国により提出される行政年報を審査することによって行われ、連盟事務局の委任統治部によって補佐された。換言すれば委任統治領は国際連盟によって後見され、既に要塞化されたものでもなくなっていた。

 □ 1922年9月頃想定されたオレンジプランは【第2図】の如くであった。

【第2図】オレンジプラン
【第2図】.jpg


 まず、さきに1914年に策定された「通し切符作戦」の策案にあたって補給点の一つとして挙げられたトラック島への直行プラン(本誌47号第3図参照)が漸進作戦の当初案として推されたが、艦隊の巡航の安全性を考えるとなお前方に突出しすぎており、マーシャル諸島が「ほどほどのところ」と考えられ、そこからフィリピンに直行する前に中部カロリン諸島で万全な補給を受けるという安全策が考案された。

 □ 作戦はハワイにおける艦隊と補給部隊の動員から始められなければならない。
 そして準備完整次第、概ね日本との開戦61日目(D+60)に派遣艦隊はマーシャル諸島に設ける艦隊の前進基地を確保すべく出航する。
 目標はマーシャル群島の最西端にある環礁エニウェトク島であり、日本軍により防備されていることを想定する。空中からの偵察(1903年にライト兄弟が発明した飛行機がその有用な性能を発揮するまでは飛行船や観測気球が用いられた)に続いて兵団輸送船が暗闇を利用して島の風下に到着し、夜明けとともに上陸を開始する。日本軍は風下に向けて毒ガスを流し味方の中には潜水艦の餌食になる船も出よう。だがプランナーたちは兵力の3分の1が失われても攻撃は続行すべきであると考えた。
 やがて防御の固かった島嶼に対し主力梯団による攻撃が開始される。戦闘想定は「海岸線において事実上完勝するか完敗するか」であったが、島内部の作戦および敵の掃討は数日で終わるであろうと見積もられた。
 主要基地で勝利を得たあと、米軍は恐らくごくわずかな防備かあるいは全く防備されていないマーシャル諸島のその他の島々を占領し、その後は日本軍の侵入を許さないであろう。

 □ 勝利の2週間後、艦隊は2千キロ西方のトラック島へ向け出航する(そこには日本がミクロネシアの占領期間中、海軍司令部を置き、太平洋戦争でも日本の主力基地となった)。米軍の作戦担当者は長い間、艦船を砲火から守る高地を持ったこの大礁湖を高く評価していた。作戦は「長くかつ困難な戦い」となることが予測されるはずだった。

 □ だがやがて遠く離れた環礁内の港から持続的な圧力を掛けることによってトラック島を占領できるであろう。その後米軍はエニウェトクを脅かす恐れのあるカロリン諸島のクサイエ、ポナペなどを掃討する必要があり、またグアムを無力化しておくためにパラオとヤップから敵を排除する必要がある。
 こうしてカロリン諸島における戦いは長く熾烈を極めるであろう。

【第3図】日本の委任統治下におけるトラック諸島
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□ 巨大ドックが必要であった。その後の米軍の目標及び日程はトラック島占領後の状況によるであろうが、艦隊司令長官は補修施設やドックの準備が整うまで前進を控えるだろうとウィリアムズは推測した。必勝態勢をとろうとすれば作戦は長びくのもやむを得ない。「人も驚く偉業」は決意を固めた富裕な国家にして初めて成し遂げうるのである。
 こうした見方は、人心を得るためには迅速な勝利こそが不可欠という積極的な考えをとる一派の考えが誤りであることを示していた。しかしウィリアムズはトラック島以後の明確な目標と日程の発表を避け、問題を回避した。

 不完全に終わったプラン

 □ 1922年9月末、ウィリアムズは海軍大学校長となるため戦争計画課を離れ、その後1925年から27年まではアジア艦隊司令官として勤務した。そのためウィリアムズはトラック島以後の明確な目標と日程を策案することはできなかった。しかし彼とその支持者たちは、太平洋をわたる作戦の、少なくとも中途まで前進する堅実な戦争計画を遺産として残した。

 □ 彼らは小さな島々への上陸が海岸線で日本軍の死に物狂いの抵抗にあうことを正確に予想していたが、1922年のプランはいくつかの誤った仮定を内包していた。
 すべての委任統治領から敵を排除すべきであるという想定はあまりにも神経過敏に過ぎた。たんに必要な範囲で迂回すればすむことだったのである。一方、動員や作戦行動の予定を前倒しに見積もっていた点で、楽観的に過ぎた。

 □ 欠陥は少なくなかったが、1922年の慎重派の作戦プランは必勝戦略への巨大な一歩であった。不幸なのは、陸海軍の上級指令官たちが翌年、このプランに背を向けたことである。しかし1922年のプランを廃棄したことは時流に逆行し、真の海洋戦の研究と適切な兵器及び補助艦船の発展を10年遅らせる結果となった。

(未完)


<参考文献>
・エドワード・ミラー(沢田博訳)『オレンジ計画―アメリカの対日侵攻50年戦略』新潮社、1994
・NHK取材班編『対日仮想戦略「オレンジ作戦」』角川文庫、1995
・等松春夫『日本帝国と委任統治―南洋群島をめぐる国際政治1914-1947』名古屋大学出版会、2011
・増田義郎『太平洋―開かれた海の歴史』集英社新書、2004
・井上亮『忘れられた島々「南洋群島」の現代史』平凡社新書、2015
・谷光太郎『海軍戦略家キングと太平洋戦争』中公文庫、2015
・池田清『海軍と日本』中公新書、1981
・黒野耐『大日本帝国の生存戦略―同盟外交の欲望と打算』講談社・講談社選書メチエ、2004
・猪瀬直樹『黒船の世紀―ガイアツと日米未来戦記』文春文庫、1998
・石川信吾『真珠湾までの経緯-海軍軍務局大佐が語る開戦の真相』中公文庫、中央公論新社、2019

<挿図>高橋亜希子

「訳者」のことば)
 明治維新によって国際舞台に躍り出たときの日本人には大変な覚悟がいったと思う。大日本帝国は開国を迫った国ぐにとの競争に勝つために、西欧化を急ぎに急いだ。もしそうしなければ亡ぼされてしまうからである。こうして日本は社会上部構造(国の組織制度)を西欧化した。
昭和20年に大日本帝国は亡び、日本はアメリカ合衆国の強い影響のもとに国を米国化した。
 いまや我々は西欧人である。
 しかし年を重ねる毎に私の「先祖の」DNAは、「どうもおかしい」と私に問いかけるようになって、現存の西欧化した自分のほかに、DNAの影響を受けた自分がいるような気分がいや増すようになった。
 かくして「日本人の心を持った西洋人」の立場に立ち思想的に混血した架空人を創り出し、それをJack Amanoと名付け、私は彼の書く文章を訳者として「執筆」を試みることを思いたったのである。(平成19年(2007年)4月)
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